第7回しでんほーる連続講座
市電の想い出〜市電OBにお話を聴く会〜
2017年6月24日 13:30〜15:00 横浜市電保存館しでんほーる
講師 斉藤章三さん、河嶋弘さん、相原政行さん
司会 横浜市交通協力会 松本さん
文責 多田
以下文中敬称略
講師自己紹介
斉藤 昭和21年3月車掌として滝頭に配属 昭和47年3月市電廃止まで26年間勤続。
その後は地下鉄駅で15年、昭和62年退職。昭和3年生まれ88歳。
河島 昭和27年2月25日19歳で車掌に、16年間乗務。その後は本局で勤務、47年間勤務して退職。今日は切符の扱いなどもやってみます。
相原 昭和31年高卒で入局、子供のころから電車に乗ると一番前で運転士を見ていた。
就職難の時代で車掌として入る、希望は運転士だったが空きが無かった。
最後の男の車掌、以後は女性が2回入っただけ。市電の最後まではいなかった。
昭和45年、地下鉄の免許取得のため4人で当時の営団地下鉄で市営地下鉄の第一期地下鉄運転士の免許取得訓練を受ける。横浜に帰ってからは地下鉄開業準備室で、運転取り扱い規程や車両故障の対応など勉強して開業を迎えた。
司会 市電に入ったきっかけは?
斉藤 たまたま募集していた。
河嶋 父親が大正9年民営時代に入って、父親がいたので入った。
息子も本牧営業所でバスに乗っている、3代100年交通局にお世話になっている。
司会 免許はどのようなものでしょう?どういった研修をされて何ヶ月で取れたのでしょう、時代によっても違いますね?
斉藤 横浜で運転指導を6ヶ月受けた。
免許証そのものは見ていなかった、退職したとき初めて見た。
事故で警官から免許証見せろと言われても、そんなものは持っていない、本局行ってくれと言った。
今持っているので見せます。
相原 国家試験になっていた。横浜では教習の先生がいない状況で東京都交通局で4ヶ月研修、11人で行っていきなり入所試験を受けて、3人落ちて9人になった。学科は8科目あって合格点は一科目につき70点以上。
平均ではなく、各科目70点なので非常に厳しかった。
横浜に帰ってから実務は元は生麦にいたが、そこではいらないというので麦田で運転士見習い6ヶ月。本来は4ヶ月くらいだが試験官は運輸省から来るのでそれに合わせて見習いをしていた。
免許証は交通局に預けていた。定年になるとき返してもらって保存館に展示してもらった。
河島 古い時代のもので保存館の展示品の木札、大正12年のもの。神奈川県八幡橋警察署と書かれている。
司会 市電の運転士、車掌というと当時は花形職業だったのでは?
河島 マイカー時代前だったから。電車しかなかったら憧れだった。
初任給は日給月給で一日260円月6500円手当て入れて1万円ほど、他から比べると良かった。
相原 私のころは他と比べると低かった。
給与は2回に分けてもらった。職場の食事代などの支払いは現金を持てなかったため金券だったので天引きされたので手取りは減った。
河島 私のころは月3回給与をもらった。
司会 市電のことをちんちん電車と呼びますが、その由来は2つあるといいますが?
河島 運転台の上にあったベルは車掌と運転士の連絡用、車掌が紐を引いてチンチンと2つ鳴ると停留所通過、ひとつで停車。
フートゴングはカンカンと鳴る。運転士が足踏みペタルで警報として鳴らす。回数は関係ない。
司会 集電器はポールとビューゲルがありましたね。
河島 ポールはその昔は2本だった、前と後ろで4本あった。外れると大変だが、私の時代はビューゲルでそういう経験は無かった。
終点で折り返すときにビューゲルの紐が巻きつくと首吊り。
司会 直接制御と間接制御の違いは?
相原 路面電車はほとんど直接制御。
1500型の20両は間接制御、直接制御はノッチを刻んでゆくが、ノッチを入れるタイミングで乗り心地が違った。
間接制御は加速減速が良くなめらか。
1500型は滝頭だけにいて運転はしていない。おそらく修理する点から他にはいなかったのでは。
昭和35年車の軌道内通行可にしたので高性能を生かせずワンマン化のときに直接制御に改造。
斉藤 好きなのは単車の500型。振動も少なかった。
相原 単車は橋などでスピードが出ていると車体が踊ることがあり車掌は大変。
ボギー車は交差点などの直角カーブでお尻を振って接車が怖い。
司会 ここで河島さんに車掌のお仕事をご紹介、実演していただきます。
きっぷ切り実演
質問 乗り換え券はあったのですか?
河島 私は扱った経験はないです。
この後のやりとりは録音不備のため省略。
司会 当日の乗務割り当てなどの決め方はどうなっていたのでしょう?
どういうコンビの組み方をしたのか、組みたくない人もいたとか?
河島 出勤時にタイムレコーダーを押す、カードを押す順番で操車係りが乗務を決める。
運転が荒いなど組みたくない人がいるとカードを出さなかったり。
相原 そういう場合は下っ端が犠牲になった。(笑
車掌、運転士の兼務の人は良かった。専務の運転士は車掌の苦労を分かっていないので乱暴は人がいた。
運転が荒いとブレーカーから火が出る。
一日組むのだから良い人と組みたい、相性の悪い人だと折り返しの時にも話もしなかった。
司会 名物乗務員がいたとか、伝説をつくった人とか・・・
質問 運転士、車掌の勤務年数の差など組み合わせに生かされていましたか?
新人にはベテランをあてるなど。
河島 組み合わせは出勤順です。
司会 何年車掌をやれば運転士、というようなことはあったのですか?
河島 それはないです。募集があればです。
斉藤 昭和21年3月に入局、22年に運転士募集があった。5名募集があって5名の応募があったがそのうち一人が辞退したのでたまたま運よく代わりに車掌1年ちょっとで応募した。
運転士の試験を受けたのは滝頭ではなくて生麦営業所管轄の3系統山元町の路線。
相原 昭和31年入局、38年運転士に、その間募集は無かった。もう運転士がいらなかったではないか。
甲種が地下鉄など、乙種が市電、甲種も東京で取った。
車掌で入ったが一日も早く運転士になりたかった。
乙種のほうが運転は難しい。路面電車の場合はすべて自分の操作でしなくてはならない。
質問 運転するとき座ってと立ってはどう違うか?
相原 座って運転するほうが良い。
1600型は座って運転する車だったがワンマン化しなかったのは中ドアだから、万が一降りた後の乗客が後輪で接車事故などあるといけないので安全の点で問題があった。
質問 急ブレーキは運転士も倒れますか?
相原 つかまっているから運転士は倒れない。急ブレーキは乗務員よりお客さんへの影響が大きい。
質問 車庫の建物が三角屋根だったがなぜか?
司会 三角にする必要は無いが、工場は熱が出るので空気を対流させるため広い空間が必要だからではないでしょうか。
質問 試験にお客さんを安全に乗せるためや、揺らさないような技量試験はあったか?
相原 試験は無いがスムーズに走るよう見習い期間に指導員から厳しく言われた。
質問 速度計が無かったが、速度は見ていなかったのか?速度が分からないとダイヤとおり運行するにはどうしたのか?
相原 速度計は無かった、試験では電柱を目安に速度を計測していたようだった。
司会 ダイヤはあったのですが、守れたのですか?
相原 ダイヤはスタフといい、部分的にあった。車が増えると遅れがいつものことになって苦労した。
質問 1600のワンマン化しなかった件、折戸だったことも原因では?
他の都市のように中乗り前降りは検討しなかったのか?
相原 そこまではわかりません。
質問 1972年市電廃止の後、他の事業社に行った人はいましたか?
河島 他に行った人はいない、市の他部署に行った人はいます。
1600型はボディーは新車だが機器は再利用でモーターが小さく力がないのもワンマン化しなかった理由では。
質問 モーターの故障などで、救援車が小型車だった場合、故障車を牽いて坂を登れたのか?
その際連結に使うカプラーはどこにしまってあったのか?
河島 カッピリングは座席の下に収納してあった。
坂道を回避して回送した。滝頭の電車であっても麦田に入れたりした。
質問 名物職員を教えてください。
河島 熱烈な大洋ホエールズファンの人がいた。
相原 あらゆる事故を経験したIさんという人がいた。
交通局の救急車が走ってゆくと、見ていないのにまたIさんかと言われていた。
人身、接車などの事故をこなしてきた。
皆組みたくないので新人が当てられていた。
だれか組まなくてはいけないので、ジャンケンで決めようとしていたら、本人は自分と組みたいからジャンケンしていると思っていた。(笑
質問 ラッセル車はなかったようだが、雪にはどう対応したか、運休したことはあったのか?
斉藤 ラッセルは大雪のときに一時期出した記憶が何年だかは忘れたがある。雪で運休はなかった。
河島 雪ではないが県庁のあたり、イチョウの葉を踏むと油でとまらなくなるので砂をまいていた。
雪で動かなくなったのは2度ほどあった。
質問 1500型は計画時は5000型だったというが。麦田に配属されたという記録があるが。
1323号はラインブレーカーが付いているのに直接制御だったがどういうことか。
500型の車軸が折れた事故が昭和36年10月ころあったが磁気探傷はやっていたのか、事故の後はどうだったか。
相原 昭和36年だと車掌で乗っていたが知らなかった。
河島 乗務員なので技術的なことはわからない。
司会 そろそろ終わりの時間ですが、まだお話されていないことがありましたら。
河島 昭和20年5月29日空襲のときの焼夷弾。
ホールの外に立っているポールに開いた穴にこれが入った。
相原 4系統ワンマンで元町からかなり年配の女性を手をかして車内に乗せた。浜松町に行きたい、と聞いてきたので行きます、と答えた。
着いたら違うと言われ、よく聞いたら東京の浜松町だった。
仕方ないので保土ヶ谷駅まで付いていって送ろうかと思ったが、後の電車が来ているので折り返しを遅らせることもできない。
幸い別の若い女性のお客さんが駅まで送ると言ってくれた。そのときの感謝の気持ちでいっぱいだった。
それからは横浜の浜松町ですか、と聞かなければと思った。電停はないが横浜には軽井沢もある、池袋もある。
司会 お話も尽きないのですが3時になりましたの閉会とさせていただきます。
この後懇親会としてお三方にはざっくばらんにお話を聞く場をもうけますので、お時間のある方はぜひご参加ください。ありがとうございました。