2016年9月17日 於横浜市電保存館しでんほーる
河嶋弘さん 齋藤章三さん
文中敬称略
齋藤 「昭和3年生まれ、88歳になります。交通局入ったのは昭和21年3月、市電廃止の昭和47
年まで26年間、運転士と車掌兼務でやっておりました。」
河嶋 「昭和8年生まれ、交通局に入ったのは19歳のとき昭和27年、市電廃止以前の昭和43年に車掌が廃止になるので本局へ移動、電車に16年間乗務しました。41年勤務し平成5年に退職しました。」
司会 「事前に河嶋さんにこんな中身でというメモをお送りしてありましたが、主に車掌さんの話が中心だったのですが、斎藤さんもお越しいただいておりますので運転士さんのお話もお聞きしてゆきたいと思います。市電もワンマンカーの時代しか知らない方も多いので、まず車掌さんの仕事とは何か、3扉車は車掌さんが2人だったのか、かばんの中身は、またマニア的な質問ですが、保存館にいる1600形は新しいのに廃車は早かった、その理由は?勤務体系として昼抜けといったものはあったのでしょうか、横浜最大のイベント港まつりの思い出など、お聞かせください。」
河嶋 「車掌の仕事についてですが、運転士と車掌とどちらが運転の主導権を持っているかというと、車掌です。車内名刺掲出は左右の場合右車掌、左運転士、上下の場合上車掌、下運転士、車掌は車を掌ります。発車する場合、車掌が乗降を確認して前後のドア確認、信号がある場合は確認して発車の合図を送り、それに基づいて電車は発車するのです。
3扉のボギー車の中間扉は昭和26年1月7日まで、車掌2人乗務、以後中扉は日中、夜間は閉鎖、昭和31年2月5日中扉中止、中扉車掌もなくなった。ボギー車はすべて2人乗務になった。
かばんの中身は乗車券、回数券、パンチ、つり銭。つり銭は料金10円、早朝割引18円のころは1円札で20〜30円用意した。
1600形が早く廃車になった理由は、モーターが弱かった、1600形は旧い車輌の部品を使ってボディーを交通局工場で作った車、台車や古いモーターを再利用したため30kW2コだった、1500形は4コモーター。
昼抜け勤務の場合、朝から出て10時ころ一旦あがってまた3時すぎに乗務した、車庫に近くに住んでいる者が多かったので一旦家に帰る人も多かった。
港まつりは必ず勤務、どの電車も満員だった。酉の市も混んだ。」
司会 「運転士さんとしてお気に入りの形式はありましたか?」
齋藤 「500形(単車)モーターも調子が良いし、ブレーキの効きも良いし、コントローラーも引っかかることはなかった。工場の人がしっかり整備してくれていたおかげ。ボギー車はブレーキが甘かった。」
質問 「ひやっとした体験などお聞かせください。」
齋藤 「運転していてひやっとしたこと、8系統の花園橋から長者町、停留所の手前がちょっと勾配になっている区間で敷石が外れていて床下のドレインコックにあたりエアが抜けてしまい、ノーブレーキ状態になった。電気制動やってもだめ停留所を通過してやっと停まった。昭和23年ポールのころで、車も少なかったので事故にならずほっとした。電気制動はお客さんがいっぱい乗っていると効かない。逆行するとブレーカーが飛ぶのでつかえない。昭和24年にビューゲルになった、楽になったのは車掌さん、雨の日もポール持たなくてよくなってその分車内の乗車券の発売ははかどったと思う。」
齋藤 「10系統で運転しているときにアメリカの兵隊に後ろからピストルのようなものをつきつけられたことがある。英語を話せるお客さんがいて通訳してもらった、俺はアメリカで運転していた、自分に運転させろ、と言っている。運転させたら上手だった。電気制動も1ノッチづつちゃんと刻んでがくーんとやらない、エアブレーキはさいごにちょっと停める時だけ、上手い運転士だった。井土ヶ谷の進駐軍MPが手を振っているので見たら彼だった。」
質問 「感謝されたことなどありますか?」
河嶋 「コントローラーが引っかかり戻らなくなったとき、おかしいと気が付いたのですぐにポールを降ろし停めることができた。」
質問 「コントローラーは調子が悪かったのですか?」
齋藤 「なにかの加減でひっかかってしまうのです。」
司会 「アメリカ兵も同じ料金で乗っていたのですか?」
河嶋 「専用のきっぷを車掌が持っていて何人乗ったかはそれで対応した。」
質問 「お気に入りの区間などありましたか?」
河嶋 「杉田線は海岸線が気持ちよかった。」
質問 「天候で苦労されたことなどは?」
河嶋 「暖房がないので冬は寒かった」
齋藤 「冬は家から新聞持っていって風が入らないようにサッシの間に詰めた。雨のときは家から雑巾2枚持っていって窓ガラスを拭いた。
営業所の前に青桐の木があって葉を5、6枚もいで窓ガラスを拭いていた。油分があるので水はけがすごく良い、みんな使うので木の下のほうの葉っぱは無くなっていた。ワンマンカーになってワイパーが付いた。」
質問 「運転で苦労した点などは?雪の日は辛かったですか?」
齋藤 「辛いのは県庁前の秋のイチョウの葉、軌道の上にあるとすべって怖かった。
線路に砂を撒く専門の見張り員がいた。乗務のない人がやっていた。」
河嶋 「台風などで(杉田線は海に近いので)塩水かぶるとモーターがだめになった。」
質問 「坂道は怖くなかったですか?」
齋藤 「怖くはなかった、山坂のコースが好きだった。」
質問 「山元町終点で停まっていた電車が走り出したという事故がありましたね。」
齋藤 「事故が起きてから停留所の位置を変えて上がって停まるようになった。」
質問 「都電には急坂に規程があったが横浜にはなかったのですか?」
河嶋 「横浜にはなかったです。」
質問 「1300形が燃えた事故はいつころですか?新聞で見た記憶があります。」
河嶋 (資料を見ながら)「昭和43年かな」
司会 「ブレーカーは運転台窓上にありますね、あれは通常の運転では操作ないですよね?」
斎藤 「ときどき過電流で飛ぶことがあります。」
司会 「ノッチを入れて過電流がかかりすぎると飛ぶので元に戻すわけですよね、燃えたのは飛んだのに戻してしまったためですかね。」
河嶋 「電車のブレーカーが飛ばないで変電所のブレーカーが飛んだ、それをまた入れてしまったので燃えてしまったようです。」
司会 「(保存館の)シミュレーターにイチョウの葉っぱですべったり、坂道でブレーカーが飛ぶ、という機能があったらリアルですね。
鉄道は上り、下り、循環線は内回り、外回りという表現をとりますが、市電はどうだったのでしょう?」
河嶋 「系統番号で言っていました。循環系統も一緒です。」
質問 「横浜独特の運転方法で連接運転がありますね、6と8の場合、6で行ったら8で戻るのか、そのまま6で戻るのもあったのでしょうか?」
※このあたり質問と回答が込み入っていてまとめられません、すみません。
質問 「横浜独特の補はいつ出していたのですか、毎日出る補助系統というのがあったのですか?」
河嶋 「臨時電車で出していた、ラッシュ時は出ていた、あとは乗務員の出勤状況で出した。操車係が判断していた。」
質問 「営業所に乗務員は何人くらいいましたか?」
河嶋 「滝頭で300人ほど、乗務するのは200人ほど。
1班30人で15〜24班体制、班でどの乗務につくかが決まっていた、2班は休み、休みは班ごとに取っていた。」
質問 「休みは何日あったのですか?」
河嶋 「公休は一週間に一回です。」
質問 「一番早い出勤は何時ですか?」
齋藤 「朝は5:10から10分きざみで出勤、乗務員は寒いけれど寒さで電車動かないということはなかった。昭和21年ころは復員者が多くて年寄りを大事にしろと言われた。
詰所の囲炉裏はひとつだけ周りはベテランばかりで若造は寒い思いしていた。」
司会 「朝は早いし終電は遅いし、通勤で都電は専用電車出してましたが、横浜はどうだったのですか?」
河嶋 「ありました、通称お召し電車(笑)
泊まり勤務の出入庫の人が2人いて班とは別に全線で走っていた。市営だけでなく神奈中など他の会社のバスの運転士さんなども乗っていた、運賃はもらっていない。」
質問 「信号塔の人もそれで帰っていたのですか?」
河嶋 「信号塔勤務の人は終電で帰ってきた、乗務員より格上だった。」
質問 「手動で切り替える信号塔はいつころまで残っていたのですか?」
河嶋 「最後のころは自動でビューゲルの位置で感知する自動になっていた。」
質問 「車が増えてきてからの苦労はどんなことがありましたか?」
河嶋 「県庁前、本牧埠頭へ行く通称コンテナ通りはひどかった。」
齋藤 「軌道敷内通行可になってからどうしようもなかった。車を運転する人は車と同じにすぐ停まると思っている、これが困っちゃう。ぶつけられた車は、なんで見ていて停まらないんだと文句つける。」
質問 「職員の移動はあったのですか?」
齋藤 「引っ越して滝頭の人が麦田、生麦へ行くなどの異動はあった。」
質問 「営業所ごとの違いはありましたか?」
河嶋 「バスが一緒のところは人数が多かった。」
質問 「お客さんが多かったのはどんな時ですか?」
河嶋 「我々のときはいつも多かったねぇ(笑)単車だとすぐいっぱいになっちゃうから。」
齋藤 「昭和30年代まで8系統は沖仲仕が三吉橋あたりからいっぱい乗ってくる。乗り切れないと電車の周りにぶる下がって乗っていた、あれは怖かった。反対側までぶる下がっているから対向の電車とぶつかってしまう。途中は降りる人がいないからほとんど県庁前まで通過だった。夕方も県庁前から沖仲仕が乗ってくる。」
質問 「都電には飛ばす運転士がいたが市電はどうでしたか?」
河嶋 「それはありますよ(笑)」
齋藤 「久保山からパラいれちゃうと赤門のカーブでよく脱線しないもんだというくらい。」
司会 「標準時間で区間何分というのを俺は何分で走ったという人もいたのですね。リミッターはついてないですよね?」
齋藤 「ついてないです。」
司会 「その気になれば50kmでも60kmでも出たのですか。」
齋藤 「メーターはついてないからね。」
質問 「どのくらいまで出したことありますか?」笑
河嶋 「40くらいは出したよね。」
齋藤 「下り勾配でパラ入れれば40以上でるかもしれないよね。」
質問 「パラとは何ですか?」
齋藤 「パラレルはモーターのつなぎが並列、回転数が上がってスピードが出る、シリースは直列、力が出る。」
司会 「スピードの出る形式はありましたか?単車のほうが出るとか?」
河嶋 「形式によってモーター出力がちがい、それによって違いがあった。パラ入れても馬力の小さい車はスピードが出ない。1600形は出力が小さいので出なかった。同じモーターで単車は軽いのでスピードが出た。1600は30kW×2、1500は25kW×4、1150は40kW×2」
質問 「1170、71が出た時に館内に展示している1510の色コーヒーブラウンだったのですが、もともと試験塗装で短期間のつもりだったのか、不評で止めたのですか?」
河嶋 「あんな色は走っていない、下塗りか車庫だけだったのではないですか?」
質問 「写真はありますが・・・」
齋藤 「評判よければあの色で走らせたのだろうね。」
質問 「乗務する電車は選べたのですか?」
河嶋 「選べません、順番です。」
司会 「調子の良い車、悪い車があって、悪いのに当たると今日これかよ、といったことですね。」
質問 「滝頭車庫に教習線があったらしいのですが。」
河嶋 「車庫のとなりに職員住宅があって、その周りに敷石、枕木、砂利など資材置き場があった、それを運ぶ線路。練習線ではないです。」
司会 「砂利、枕木など積んで保存館にいる貨物電車で運んで夜間作業をしていたのですか?」
河嶋 「そうです。あと花電車に使ってた。(前に置かれたフットゴングを叩いて)このカンカンも貨物電車のものですね。」
司会 「フットゴングは普通の電車にもついてましたか?」
河嶋 「ついてます、エアブレーキをつけている車はタイフォン(空笛)もあった。貨物電車はハンドブレーキだけなのでフットゴングを使っていた。普通の電車でフットゴングは満員で停留所を通過するときに鳴らしていた。」
質問 「1960年代に塗装が変わったのは理由があったのですか?」
河嶋 「それはちょっと分からないな・・・」
質問 「女性車掌は戦後もいたのですか?」
河嶋 「いました、昭和30年ころ、営業所に10人ほどかな。」
斎藤 「昭和21年で3人くらいいたかな。」
司会 「女性車掌も男と同じように仕事振られていたのですか、ポール時代はポール扱いは男だったのですか?」
河嶋 「戦時中は女性運転士もいた。」
齋藤 「昭和24年にビューゲルになったのでポール扱いはなくなった。屋根からポールごと落ちる事故もあった。」
河嶋 「僕らが入ったときは女性は係員だった、乗務員ではいなかった。バスの車掌さんはいたので、乗務後の身体検査をやっていた、風呂入れられて下着から調べられた、ドロボウ扱いで今なら人権問題になるところ。」
司会 「乗務終わってお金を着服していないかの検査で、風呂は口実ですか。」
河嶋 「そうです、乗務員から検査なんてとんでもないという声があがり止めた。」
質問 「お金と売ったきっぷが合わないとどうなるのですか?」
河嶋 「お客が多いときっぷを切りきれない、混んでいるとみんなお金だけ置いてゆく、10人いたらあとで10枚切ればよいのだがやっている暇もない、お金と合わなくなるが途中で降ろされて検査されることがある。」
司会 「きっぷは車掌さんが持っていても下りる時に運転士さんにお金渡す人もいっぱいいたわけですよね。」
河嶋 「運転士に渡された分も本来切らなければいけないが忙しいとできない。」
質問 「きっぷをきるのが間にあわないとき、だまって乗ったり降りたりする人いましたか?」
河嶋 「乗り逃げはいましたよ、酔っ払いも逆らうと面倒なので、しょうがないやですね。」
齋藤 「駅員に暴力はありますね、地下鉄行ってからごたごたもありました。市電のときは酔っ払いにからまれたことはなかったな・・・駅員は絡みやすいのだろうね。」
質問 「印象に残っているお客さんなどいますか?」
質問 「毎日乗っている女学生さんに惚れられるといった話とか。」
河嶋 「なかにはそれで一緒になった人もいますよ、運転士さんには女の子がくっつく。(笑)」
質問 「貸切電車は途中の停留所は通過していたのですか?」
河嶋 「途中は通過、ゴングを鳴らして、貸切と表示していた。」
齋藤 「貸切の看板出して、方向幕も貸切」
司会 「貸切だと普段走っていない線も走っていたのですね。帰りはどうしていたのですか?」
河嶋 「帰りは(補)を出して営業所に戻った。貸切の系統板の裏は補だった。」
質問 「若い頃を思い出して車掌の一節をお願いします。」
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河嶋 「毎度ご乗車ありがとうございます、この電車は山下町まわり桜木町行きでございます。おつかまりください、動きます。次ぎは根岸橋、根岸橋でございます。」
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司会 「これは完璧版を作っていただいてシミュレーターで車掌さんの声が流れるというのをぜひ開発をお願いしたいです。」
質問 「車内のベルは降車客がいると何回、いないと何回、というふうになっていたのですか?」
河嶋 「そうですね、(保存館の)シミューレータで「乗車券をお持ちの方はお求めください」と言っているが、お求めではなくお切らせ願います。」
齋藤 「パンチ持っているからお切らせなんですよ。」
河嶋 「パンチの形が違ううきっぷはつかえない、私の電車は穴が○だ、というが実際はそこまで見ていられなかった。パンチの種類、○△□。」
司会 「パンチは車掌さんごとに決まっていたのですか?」
河嶋 「かばんとともにずっと継続、自分専用でカバンとパンチの置き場所も決まっていた。」
質問 「昔の制服などはお持ちですか?」
齋藤 「ないですねぇ」
質問 「乗り換えきっぷはいつごろ止めたのでしょうか?」
河嶋 「昭和20年6月1日から乗り切り制となり乗換券は姿を消した。」
質問 「市電廃止後の身の振り方はどのような方が多かったのでしょう?」
河嶋 「交通局から区役所、地下鉄、バス車掌などへ、交通関係だけではなかった。」
質問 「滝頭の保存館を造るにあたって皆さんの残そうという気持ちが強かったのでしょうか?」
河嶋 「交通局長と全職員でしょうね。」
司会 「時間なのでそろそろ終了させていただきますが、まだまだ皆さんお聞きしたいことたくさんありそうなので、またぜひこういう場を設けさせていただきたいと思います。」
河嶋 「最後にこれはぜひ見ていただきたいと持ってきたもの、昭和20年横浜大空襲で落ちて来た焼夷弾です、保存館入口の市電ポールに当たって穴をあけたものがこれです、ぜひ帰りに見ていってください。横浜の戦災跡は京浜急行の駅跡が残っているくらいです。」
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