「鉄・街・道」831列車様作
撮影者は特記ないものは作者によるものです。
大井川鉄道で復活したC11190 2003年11月21日福用
「五条川鉄道写真館」吉野富雄様ご提供。
190「さてしんがりの九州地区は私190が担当します。
またひとりでは心もとないので、大井川の大先輩でもあり他地区の様子も御存知のベテラン227さんにも司会のお手伝いをしていただきたいと思います。ひとつよろしくお願いいたします。
懐かしい顔が揃いましたね。黒木町の61さん、直方の131さん、おお宮崎の191くんもですか!福岡の257さんは門デフ健在ですね。佐賀からは259さん、中間からは260さん、大分の270さんもおられますね。
ということは九州内からは私を含めて8両ということになりますね。あ、あそこで手をあげているのは200さんですか、のちほどお召しの話しなどに加わっていただければ嬉しいです。
他にも晩年九州で活躍していた方々では・・・おられましたね、189さん、195さん、そして254さんです。」
131「司会、早う始めんしゃい!」
190「おや、すでに一杯気分の方もおいでのようですね・・・、さすが火の国九州のC11は豪傑です、まさか重油ではないでしょうね(笑)。
え?催促もありましたので早速発言を頂きたいと思います。個々の活躍した線などでの思い出などはのちほど伺うこととして、まずは各保存機の方々の簡単なプロフィールなどをお話し下さい。
とりあえず若番順ということでお願いいたします。」
61(S10川崎 49・12熊本廃車 福岡県黒木町体育センター保存)
1999年12月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「いまはなき矢部線(羽犬塚-黒木 1985 昭和60年4月1日廃線)の終着駅の黒木町から来ました61です。簡単な経歴は戦後からになりますが、24年日田・36年荒尾と主に中九州地区で働いていました。
30年代後半に熊本へ移り、そこが最後の地となったわけですが、その間の昭和41年10月29日に三角線の三角→熊本でお召し列車を牽引させていただいたのがとても思い出に残っています。」
190「そうでした!あの時61さんと同じカマの飯を熊本で食べていた私にもその大任の役が回ってきて、61さんがお召しを牽いた前日の下り(熊本→三角)を私が担当したのです。
何故万全の整備をするお召し用機関車をわざわざ2両も同区間の牽引機に用意したのかはわかりませんが、おかげで良い夢を見させていただきました。」
61「おお、こうして復原中の190さんの体をながめていると、あちこちに当時の特別整備の名残りが見られるんですね。」
190「(参加リストを見ながら)今61さんの履歴など拝見していて思ったのですが、60から69までの60番台のC11は中々幸運というか、けっこう保存されたり晩年まで現役だったりしたのですねえ。弟の62さんも熊本?志布志で49年まで頑張っていますし、63・64・65・66は連番で保存という状況ですよ。」
195「反面我々190番台の兄弟も悲喜こもごもの人(車)生を送っているようです。」
189「前後の私(189)や200さんが残っているというのもナンバーの不思議ですねえ・・・。」
※幸運なC11190番台+189・200 ★印はのち保存車・×は既廃車
蒸気機関車末期の49年3月末までほとんどのカマが健在だった。
★189志布志、★190熊本、★191熊本、192会津、193×、194志布志、★195志布志、196小牛田、197会津、198×、199会津、★200志布志
190「番号の運不運もさまざまなようですね。さて続いては直方の131さんですね、おや足下が少しふらついているようですが・・・?」
131(S13日車 46・1門司廃車 直方市石炭記念館保存)
「(ウィ〜)、気にせんでよか、え?北九州で生涯過した131です。
わしの働き場所の主な所じゃが戦前に西唐津、戦後は若松や直方といった筑豊におっとったのだが、最後は門司で日田彦山線などで客車を牽いておりました。
筑豊のC11の運用がなくなるのは47年春だったとですが、私はその約一年前に引退し、直方の石炭記念館に保存されたとです。(ヒック)機関区が見える丘の上にあげられたんじゃけん、まだ現役の仲間がたくさんおるのにいいんじゃろか、と思っておったが、筑豊の象徴である石炭関連の資料を集めた施設に展示されたのもいいもんじゃ、と悠然としておったのがいけんかった。」
227「おや、何かありましたか?」
131「いやな、確かに筑豊の石炭産業は終焉に向かっておったのは事実なんじゃが、まだ眼下の線路にはたくさんの汽車が動いておって、早々に引退したわしなんぞに会いに来る物好きはなかなかおらんかった。
そうこうしているうちに施設自体への関心も薄れ、当然のごとくわしの体もぼろぼろになってしまったんじゃ。」
190「それは御気の毒でした。確かにまだ現役蒸機が頻繁に走っている近くでの早期の保存車はなかなか顧みられないことがありますからねえ・・・、でも131さんのお体を今拝見する限りではそれほどの痛みは見られないようですが(・・・131の体をながめる190)。」
●「まだこの頃は体も痛んでおらんかった・・・」72年夏の131号
131「おお、それでの。つい最近のことじゃが、やはり市の施設であるからということで直方市が骨を折ってくださり補修と整備をしてくれたんじゃ。
五年程前の事かな。でまあ外観は何とか見られるようになっているわけじゃよ。」
●かなり疲労の色が濃くなっていた85年頃の姿
190「最近は自治体もお金がないのでなかなか整備にも手が回らないことが多いですしね、何はともあれ良かったです。
131さんの次は広島からの189さんですね。」
189(S15川崎 50・2志布志廃車 広島県府中町ダイヤモンドシティソレイユ保存)
2004年7月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「どうも189です。おお200さんお元気ですか! 今日は広島の山奥からやってきました。
私は九州でも南の方で過した方が多かったのです。
戦前は吉塚などにいましたが、その後はずっと志布志に腰を落ち着け最後まで過しました。
幸いにも九州最後のC11としても残りまして縁あって広島県の可部線の終着駅に保存されました。
しかしその可部線がいま存続問題に揺れており、ちょっと心配しております。」
●1971年3月 志布志 「勝手&気まま」佐々木様ご提供
※残念ながら可部線の末端部分は廃止されてしまい、189号も“元”となってしまった三段峡駅前か
ら府中町のダイヤモンドシティソレイユに移設された。
227「資料によれば189さんは15年9月の吉塚新製配置ですから生っ粋の九州っ子ですね。
一方190さんは192さんまでを含めて3兄弟はのちの転入組ですから、一番違いといってもけっこう違うものなのですね。
ではその190さん、司会進行役ではありますが自己紹介もお願いします。」
190(S15川崎 49・6熊本廃車 熊本県八代市の個人が保存後、平成13年大井川鐵道にて復原のため移籍)
「では手前味噌になりますが簡単な経歴紹介だけしておきます。
すっかり九州のC11の顔をしていますが、私は元々東北におり、昭和16年にはいま新幹線が開業したばかりの八戸(当時は尻内)におりました。
しかし戦後に九州入りし伊万里区に配置されるとあとは最後まで九州の地を離れることはありませんでした。今日も多くの旧友が見えている190番台、あ、189兄さんも続き番号でしたね(汗)、・・・の多くの方が西九州で活躍したのですが、私は一足早く熊本に移りそして49年の廃車まで働きました。
その後は保存予定車として豊肥本線の瀬田駅に留置されていましたが、ありがたいことに八代市にお住まいの個人の方が貰い受けて下さり、さらに長年面倒を見ていただいた管理者の方が近年保存維持の限界とともに『何とか引き続き保存を』との願いが通じ、こうして今大井川鐵道のC11第3の動態復原車として整備を受けているわけです。」
※ 190号は予定通り復原完了し現在は大井川鐵道の主力として活躍している。
227「私も強い味方ができ大井川でも大感激の毎日です。
312さんもよろしくとおっしゃっていましたよ。では続いて宮崎からの191さんですね。」
191(S15川崎 49・8行橋廃車 宮崎県宮崎市原町児童交通公園保存)
2000年1月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「一番違いの弟も健在です(笑)、兄さんまもなく復活ですね、おめでとうございます。
私も兄さんと同じく尻内に配属されました。ということは新製配置だったのかな?
そして九州入りも同時期で、私は西九州のC11の牙城・早岐に転入しました。
その後豊後森を経て熊本で190兄さんと再会したんでしたよね。
グリーンナンバーとなって三角や荒尾での仕事は楽だったけれど最後に私は行橋へ転属し、田川線の客車などを牽いて49年夏に引退しました。なぜか今は南九州の宮崎におります。」
190「そうそう、191くんとは熊本でまた一緒になりましたね。
晩年のメンバーの動向には非常に興味をひかれるものがありましたが、これはまた後程ということで・・・、自己紹介を続けましょう。
3番とんで四国からの195さんになりますね。」
195(S15川崎 50・2志布志廃車 香川県大川郡白鳥町福栄小学校保存)
2000年12月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「引き続いて190番台の195です(笑)。
私は190・191兄さん達と違って昭和15年に西唐津に新製配置されました。根っからの九州男児?です。
この時は193-197が西唐津、198-200までが後藤寺に9-10月にかけて揃って配属されたようです。
その後門司に転じ46年には行橋、そして最後が志布志でした。
途中離れたこともありましたが、弟の200くんとは36年に門司、そして最後の志布志で再会したりとやはり縁があったようです。現在は四国の香川県の方におります。」
227「このあたりの御兄弟は皆さんあちこちで一緒になったり離れたりで不思議な糸で繋がれているようですね。195さんの現状などはいかがでしょうか?」
※195のいる香川県大川郡は平成15年4月に町村合併により「東かがわ市」となった。
195「まあとりたてて変化はありませんね。
私が自分としてはあまり縁のないこの四国の地に保存されたのは、なんでもここが国鉄の偉い方の出身地だったからとも聞いております。
さきほどの中国・四国部会でもお話したとおり、近くの国鉄線でもかつてC11が走っていたということもあって私が選ばれたのでしょう。」
●1971年3月 直方 「勝手&気まま」佐々木様ご提供
227「そうでしたか、ありがとうございました。では続いて195さんの香川県とは瀬戸内海を挟んだ向かいの兵庫県からお越しの200さんお願いいたします。」
200(S15川崎 49・11志布志廃車 兵庫県龍野市中川原公園保存)
2001年1月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「おぉ、そういうことになりますね。195さんともども先程の部会から引き続いて参加の200です。
まず自己紹介ですが、私も昭和15年10月の九州新製配置組の1両です。
190〜200の続き番号では193〜197さんが西唐津、198〜200までが後藤寺でしたね。
それで私は糸田・御藤寺・伊田などの周辺路線で働いたあと、24年早岐・36年門司・46年鳥栖・・と主に北九州の各地を移動しました。
最後はC11最南端配置区でもあった志布志区で日南・大隅線などを走り49年11月に廃車となりました。
この間お召し列車の牽引なども任されたこともあってか今は兵庫県の『醤油と赤とんぼの城下町・龍野』で余生を過しております。」
227「播州龍野はよいところと聞いております。
そういえば近くを走っている姫新線もC11がかつて活躍していたようですので保存地としてはまずまずといったところでしょうね。」
200「まあ露天ながら時々手入れはされているので今後はさておき現状は可もなく不可もないですね。
九州での話はまたのちほど加わりたいと思います。」
190「200さんというとやはり晩年にファンの注目を浴びた“お召し列車”牽引のことを聞かないわけにはいきませんね。」
200「いや、その面でも先輩の61さんや190さんが実績を積んでこそのものでして別段のことはないのですが、ファンの注目を浴びた晩年だったと言うことが幸運なのか、結構話題にしていただいたのはこのうえない幸せだったと思います。」
190「内容はどういったものでしたか?」
200「九州でのC11のお召しは61・190さんの41年のあと165さんが担当した44年の松浦線がありそして48年の私となるのですが、この時は宮崎植樹祭でのもので、私は4月10日に日南線の宮崎→串間間をC5692[宮]さんと一緒に牽引し、二日後の12日には単独で同線の青島→宮崎を走ってC57117さんにバトンを渡しました。
これが結局九州の、いや日本の国鉄蒸気機関車牽引の最後のお召し列車となったわけです。」
61「当時のお写真などを拝見すると、最後のSLお召しとあって機関区の方々などの整備にも力が入っているようで美しいものですね。」
●お召し装備の残る200号 1973年8月5日宮崎 撮影TADA
190「お召し列車などの思い出話しありがとうございました。
さて次はしばらく番号はとんで・・・え〜東北部会からお越しの254さんになりますね。」
254(S19日車 50・1会津若松廃車 福島県会津田島駅横保存)
「再びお邪魔します。いや〜懐かしい九州の皆さん、お元気で何よりです!
会津が第二の故郷ならばこちらは長く暮らした町、といった感じですね。ではこちらでも自己紹介いたします。昭和19年に生まれた私の新製配置は福知山でした。しかしここはわずか二ヶ月ほどしかおりませんでしたのであまり記憶にないのです。
そして同年の4月に九州入りし、生涯のフランチャイズともなる西九州の早岐に配属となりました。
さらにすぐ新設された佐々区へ移りましたが、職場は松浦線とその支線であることに変わりはありませんでした。45年の再統合でまた早岐に戻り、無煙化まで働き48年4月に会津へと旅立ったわけです。
そのため九州のC11らしい門鉄デフなどの装備のまま、今も会津で過しております。」
190「なるほどお姿を拝見すると“九州テイスト”いっぱいのC11といった感じですね。
会津での暮しはいかがでしょうか?」
254「はい、会津の会でもお話しましたが、転入後は他のC11さんたちと同じように前照灯をシールドビームに替え、イメージがかなり変わりました。
しかし門デフやバック運転時のためにあけられた通風孔などはそのままでしたので会津では南国風の装備も混じった独特の姿で走っておりました。」
190「(254の外観をながめながら)ふむふむ、確かに変わっていますね。それにしても九州での長いお務めを終えてホッとしていた時にさらに北国への転勤辞令・・人間のサラリーマンにも似た悲哀を感じますねぇ・・。」
254「いやいや、確かに当初はそんなことも感じましたがもう蒸機としてはこれで動くことはないのかと思っていた時に“東北最後のC11の里”であり人気も高かった会津への移動は結果として私にとっては良き思い出となりました。
それにこの門デフが決め手となったのか・・は定かでないとしても会津地区で働いたおかげで田島に保存もされたのですから・・。」
227「そうですね、会津がC11にとってひとつのシンボル的は運行路線であったことは近年の復活運転の盛況を見ても感じとれますし、沿線にも保存されたお仲間が多いと聞きます。
良いところに保存されて何よりでした。」
●1971年4月 伊万里 「勝手&気まま」佐々木様ご提供
※ C11254の九州での最後と会津での働きの様子は『蒸気機関車』No40(75年11月号)に詳細記事がある。
227「さて次は254さんの三つ下になります257さんですね。」
257(S19日車 49・8行橋廃車 福岡県粕屋郡皿山公園内保存)
2004年5月「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「福岡は粕屋郡からまいりました257です。
私を頭にした257-259の3兄弟は昭和19年(1944)3月25日付で揃って早岐に配属されました。
その後佐々に移り松浦線に専念することになりましたが、45年の機関区統合で再び早岐に戻りました。
254兄さんとも一緒の職場でしたが47年に松浦線などの無煙化により熊本へ転じ、三角線や周辺の入換えを仕事としましたが2年ほどで役目がなくなり『とうとう最後かぁ・・』と覚悟を決めたのですが、なぜか門鉄局の方からお声がかかり、行橋区へ移動しました。
その時のお仲間は48・191・260さんでしたが、田川線の9600さん検査切れによるピンチヒッターとはいえ幸いにも48さん以外の3両は保存されたのでした。」
●1971年4月 松浦線 「勝手&気まま」佐々木様ご提供
190「254さんはじめきょうはここに弟の259・260さんも御健在でお見えになっておられますが、間の258さんはどうされましたか?」
257「あれ?どうだったのかなあ、早岐では一緒に頑張っていたのだけれど熊本に来ても彼の姿は見えませんでした。」
227「記録によりますと258さんは46年6月2付で直方区にて廃車、となっていますね。」
257「そうでしたか・・・、じゃあ彼は筑豊のC11として最後を迎えたわけですね。いや御報告ありがとうございました。」
190「同じ時期に九州の土を踏まれた仲間がひとりでも欠けるとやはり気になるものですね。
特に続き番号の兄弟機ともなれば・・。
おおそうでした、その258さんのひとつ下の弟さんが259さんでしたね。ではどうぞ。」
259(S19日車 49・6熊本廃車 佐賀県武雄市東児童館保存)
1999年12月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「(遠い目)うん、258兄さんの最後を聞いてちょっと感慨にふけってしまいました。
こうして257・260お二方の姿を拝見していると、よくぞ再び、の感も湧いてきます。
おっと自己紹介でしたね。今巷で話題?の佐賀県は武雄市より来ました259です。
私は257兄さんとほとんど同じ経歴で、19年の早岐配属から佐々-早岐-熊本までいつも一緒でした。
兄さんは最後は行橋でしたが私は熊本に残り、190さんなどと一緒に働いていました。
保存先となった武雄市はかつて職場だった佐々や早岐にも近く、沿線にも思い出がある馴染みの土地なのですが、聞く所によると元々はここに行橋区で廃車になった162さんが来るはずだったのだそうです。」
195「え!それは本当なのですか?162さんといえば熊本の4両の方がお見えになる前のC11引退時まで一緒に働いた仲だった方ですが・・・。」
190「つまり259さんは162さんの代機、ということなのですね。
(資料を見る190)・・162さんは47年3月頃に武雄市への貸与が決まり、行橋に保管されていたのですが、やはり心無い方による部品盗難などがあって荒廃し、保存は取り止めになってしまったのだそうです。
ただ貸与は決まっていましたので、たまたま縁のある259さんが熊本にいたため選ばれたのでしょう。
それにしても30数点の部品がなくなっていたとは!ブーム末期にあったこのような悲しむべきことを歴史の中に埋もれさせてしまうのではなく、こういった機会に思い出していただき、多くのファンや保存に携わった方々への警鐘としたいものです。では続いて260さんどうぞ。」
260(S19日車 49・8行橋廃車 福岡県中間市垣生公園保存)
「ども。257・259兄さんも御無沙汰でした。筑豊は中間市から来ました260です。
まずは簡単な経歴からお話します。戦争も末期の19年6月22日に日本車輌で生まれた私はそのまま新製配置として佐々区に赴任しました。
同時期に製造された(三ヶ月程先輩になりますが)257-259の兄さん方は同じように早岐に配属されており、毎日顔を合わせながら松浦線などで働き始めました。
その後の経歴はほぼ257兄さんと同じで、早岐-熊本-行橋と移動して49年8月に廃車となりました。
保存地も意外と近い福岡県の筑豊周辺なので生涯を通じて同じような一生を送ったといえるのではないでしょうか?」
190「なるほど、皆さんそれぞれに関連があるのですねえ、驚きました。
では続いて10番ほどとんで大分の270さんどうぞ。」
270(S19日車 46・7大分廃車 大分県玖珠郡三島公園保存)
2001年1月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供。
「こんにちは、大分からまいりました270です。
簡単に自己紹介いたしますと九州入りは20年4月の佐々で、その後東小倉や直方を経て46年2月20日に大分にまいりました。
ここではC11の配置は久々だったのですが、その理由は宮原線の不定期貨物に使用するためでした。
しかしすでに御用はなくなっており私が実際に動く事はありませんでした。
ほどなく宮原線の貨物自体が廃止、私も全検切れになり転属五ヶ月余りで廃車となってしまいました。
最後はなんか消化不良のような形で終わってしまい、しかも他の皆さんよりも若干早い46年7月という時期での引退はちょっとさびしいものでした。
しかしその後保存が決まり、11月に豊後森区から設置場所の三島公園まで輸送されて3日に除幕式をしていただき、のんびりと余生を過させていただいております。」
※宮原線は昭和59年(1984)12月1日に廃止された。
190「ふむふむ、270さんは直方までが表舞台で、あとは隠居暮しのようなものだったのでしょうか。
いやこれは失礼! つまり活躍のタイミングを逸したということなんでしょうね。」
270「ええ、まあそういうことでしょう。でも早い廃車にもかかわらず保存されたのは大分に来た事が幸運だったともいえるでしょう。」
131「わしもよく覚えておらんのじゃが、昔大分にいたような気がするぞ。」
270「そうですね、数少ない大分に配置されたC11の2両がともに生きながらえたというのも運命の不思議さを感じます。」
190「以上が九州内保存および九州ゆかりの保存ナンバー機の方々の御紹介でした。
おっと・・・(出席簿を見る)270さんが最後かと思いましたら名簿では熊本市の284さんの名があります。
しかしお姿が見えませんね?」
270「おおそうでしたか・・・。284さんも同じ佐々で働いた仲間でした。お姿が見られないのは残念です。
2両しか施工されなかった変形門鉄デフ(K-10 関分類)を付けた貴重な仲間だったのですが・・・。」
284(S20日車 46・4早岐廃車 熊本県熊本市蓮政寺公園保存後、解体)20・5・14新製 佐々配置 46・4・28佐々廃車
190「資料によりますと284さんは廃車後熊本県内の蓮政寺公園というところに保存されたようですが、やはり保守などの手間があって老朽化しちょっと前に解体されたということのようです。」
227「それでは九州での主な活躍地での思い出などを語っていただきましょう。
C11はほぼ全九州で配置された実績がありますが、ファンの皆さんが目にしたブームの頃でいえば、大きく分けて筑豊・松浦・熊本・志布志といったエリアが思い出されるようですね。」
190「そのようですね、では227さんの案に従って北から順に我々の足跡などをたどってみたいと思います。」
九州各地の無煙化(主に44年以降のC11運行路線)※はC11の運用が消えた路線
筑肥線44・3・16、甘木線46・10、宮原線46・10、松浦線47・3、※筑豊地区(伊田・田川・添田・宮田・日田彦山など・・田川線の一時復活は除く)47・3、矢部線49・4・25、三角線49・4・25、大隅線49・12・20(27)、日南線50・1・20
添田線客レの無煙化は46・3 3・24の最終牽引列車937レを牽引のC11302に日の丸の小旗と「御苦労様」の花飾り
筑豊・北九州のC11
227「北九州のC11というと、どんな線を思い出しますか?」
190「そうですねえ、もちろん全九州にくまなく配置された実績はありますが、いわゆるブームの頃にファンのみなさんが我々の姿を良くカメラに収めに来ていたところといえば、筑豊のローカル線(伊田・田川・日田彦山・宮田など)、松浦線・古江(のち日南)線ぐらいですか。
あ、それと私のいた熊本付近の小運転もありました、三角線や荒尾の入換などだったかなあ。
しぶいところでは矢部線なんかにも入っていたけれど、さてファンの方にはお会いしたことがありましたか・・・、これはのちほど聞いてみましょう。まずは門司あたりの思い出を語っていただきたいのですが(資料を見て)おや、晩年活躍したC11の仲間は皆さん解体されてしまったようですねえ・・。」
200「生き残りというと45年にいた私と131さんぐらいですか。
思い出というほどのことは語れませんが、門司のC11というのは周辺の門司港や東小倉のものを統合したりして一時はC11だけでも28両という、おそらく当時最大の配置を誇った時期もあったということです。
b周辺の入換や小運転、そして31年に全通した日田彦山線でのロングランなどに精を出していました。」
227「撮影地ガイドによるとD51さんも活躍していた金辺峠越えや山間部のアーチ橋を渡る釈迦岳越えなどがありますね。」
131(S13日車 46-1門司廃車 直方市石炭記念館保存)「おっと筑豊のC11も忘れてもろうては困るのお。運炭列車は大型機が中心だったが、その間を縫って我々も地域のお客さんを細めに運んでおったよ。
網の目のような路線を軽快に飛ばすC11もなかなか良いとのファンの評判もあったばい。」
200「たしかに。運炭列車の合間を縫ってこまめに働いていたのが我々でした。
宮田や勝田などの行き止まりの線へもバックで2-3両の客車をひくのはお手のものでしたし、あとは大型機が走るので路盤も強化された本線などでは軽快にすっ飛ばしたものでした。」
131「そうさの、伊田線・田川線・添田線・日田彦山線・宮田線・勝田線・香椎線などくまなく走っておったよ。あの頃は良かった・・(遠い目)」
189「ただ旅客列車の無煙化の担い手としてもっと小回りの効くディーゼルさんがまず短区間に使用されていた我々の職場に進出してきましたのでD51・D60さんや9600さんなどより先に筑豊からは引退せざるを得なくなってしまったのですね。それが昭和47年3月のことでした。」
190「田川線では復活劇があったとか?」
191「おおそうでした!さきほども257さんが自己紹介でお話し下さったので重複しますが、熊本で仕事も終えしばしの休息についていた私たちC11にお呼びが掛かったのは49年の春のことでした。
なんでも北九州の田川線に一往復残っていた9600さん牽引の通勤通学列車が9600さんの相次ぐ検査切れとかでディーゼル機関車が到着するまでの繋ぎにとの要請があったのです。
さっそく私を含めた4両(48・191・257・260)のC11が行橋へと向かったのでした。」
257「そうそう、もともと田川線の客車列車は46年3月まで行橋のC11が牽いていたのだから慣れたものだったね。」
260「もっともあくまで“つなぎ”だったのでこの復活もわずか三ヶ月ちょっとのことだったのだけれどね・・・。まあ短い期間ではあったけれどちょうどファンの方々も九州のSLの最後の時期ということもあってあちこちで見かけたので意外とカメラに記録されたのではないかなあ。」
※門鉄局でのC11(客車牽引)一時的復活
46年3月で田川線からC11牽引の客レが消え(1往復残ったSL客レは9600となる)、47年3月に門鉄管内から予備機を残してC11が引退したが、SLも末期となった2年後の49年4月に突然田川線にC11の客レが復活した。
1往復の通勤・通学列車に使用していた9600が全検切れなどで不足したもので、熊本区から4両のC11が転入してこの任にあたった。ただこれも7月までで、束の間の復活劇であった。
なお行橋に転入したC11は48・191・257・260である。このうち48を除く3両は保存されている。
190「その他北九州でのC11の話題というと少々古い話になりますが、篠栗線と勝田線での客車列車の同時発車というものがありますね。
年配のファンでないと憶えていらっしゃらないかもしれませんが、非常に珍しいこの併走劇を演じていたのが当時吉塚区(42年からは香椎区)にあったC11たちだったのです。」
131「ほうそんな列車がおったのかい。いつ頃のことですかいのぅ?」
227「資料によれば大体昭和41年(1966)頃からのようで、鹿児島本線吉塚駅の当時の配線状況にあって向い合せのホームから14時55分発篠栗線729レ(篠栗行 当時はまだ行き止まり)と勝田線833レ(筑前勝田行き)どちらも逆C11+客車2両編成が同時に発車し、東へ複線のように敷かれた2・5キロの両線の上を並んで走るというものだったようです。」
190「当時全国でも同時発車というものはたまに見かけるものでしたが、このケースの場合は同じホームから、同じ方向に、同じ時刻に、さらに同じ編成で発車するという希なもので、またその併走距離も単線の隣同士を約2.5キロという長いもので、さらに牽くのが蒸気機関車ということもあって、すでに広まりつつあったSLブームの中で九州を訪問するファンには注目の場面であったようです。」
131「ふむふむ、面白いのう。今だったら沿線はカメラの砲列じゃな(笑)。」
227「この併走劇は実際は秒単位のズレがあったのですが、42・3の改正で14時55分00秒というまったくの同時刻発車となったようです。
ただ本来はこのような時刻設定は競争や事故の恐れもあるのでファンはこの偶然の設定には驚いたようですね。」
190「まあこういうこぼれ話しがあったのもまだ蒸機が幅をきかせていた40年代初めの九州ならではのものだったのでしょうね。」
※この併走も43年5月の篠栗線全通による旅客全面DC化により消滅した。
※門司区のC11配置
31・11(門司区C11進出時)36、48、49、95、169、301、340、379
45・6現在 ★131、173、195、★200、299、301、305、337、340、347、365、373、375、376、379
46・3・31現在 44※、104※、299※、301、340※、347、365、373、375、376、379(※一休)
47・3・31現在 373、375、376、379(すべて一休)
190「中九州地区ではいかがでしょう?
主なところでは甘木・矢部線や山間部に入った日田あたりがC11の働き場所だったと思いますが・・。」
61「さきほどもお話したとおり、私の働き場所の多くがこのあたりでした。甘木線は途中の太刀洗にかつての飛行場跡に建ったビール工場などの貨物がけっこうあり、46・10あたりまで鳥栖区のC11の運用がありました。
一方黒木(矢部)線の方は熊本区の担当でしたがとりたてて目立った産業はありませんでしたが、沿線の矢部茶など細々としたものを運ぶための列車がわずかですが残っていました。」
190「たしか晩年には合理化のため途中の筑後福島までの運用になり、7キロ弱しかC11は走らなかったんですよね。」
227「このあたりの無煙化というと?」
190「甘木線を担当していた鳥栖区のものが46年10月、矢部・三角線などは管理局も違うこともあったのか若干遅くて49年4月といったところでしょうか。」
200「その甘木線の無煙化によるC11の撤退時に鳥栖区で予備機として残されたのが私だったのですが、それも半年余りのことで47・3に志布志へ移動して配置がなくなったということです。」
※鳥栖区最終配置 C11169、173、200、282、337
61「そうでしたね、甘木線で働いた仲間の生き残りは200さんだけということになるのですねえ・・。」
227「そうそう一説によると当初61さんは宮崎県の都城に保存が予定されていて、矢部線沿線には190さんが来るはずだったとか・・・」
190「おや、そんな計画もあったのですか、初耳です。」
61「それにしても一生懸命働いた鉄道自体がなくなってしまったのは寂しいですね。
矢部線も昭和60年(1985)4月1日で廃線になってしまいました・・・。」
227「矢部線での運用がどういったものでしたか?」
257「はい、担当は熊本区でしたが荒尾支区に常駐しており、45年前後では大牟田周辺の入換作業とともに一往復の貨物の運用がありました。」
227「このあたりは記録写真も少ないようですね。ありがとうございました。
では少し内陸部に入ったところで日田周辺での思い出などはいかがでしょう?
彦山線以外では宮原線あたりに配置があったようですが・・・。」
259「そうそう、九州の小海線と誰かが言ったか言わないか・・はさておき、そんな高原ムードのあった宮原線にもC11が走っていたはずですね。ただ大分に保存の270さんがさきほどおっしゃっていたように晩年はほとんど運用されなかったようです。」
門鉄デフのC11
門鉄デフ(小倉工場式切取りデフ)を装備したC11はのべ11両(形式間の授受があるため)あり、284のK-10(関分類)を除いてすべてK-7の標準タイプを装備していた。(★は保存機)
49、53、74、116、165、★254、★257、★260、★284、337、349
190「さて九州のC11を語る上で忘れてはならないのがブルートレイン“特急さくら”の牽引の記録なのですが(一同「おぉ!」の声)、当時早岐に在籍していた仲間のうちでも実際に牽引にあたったものはみな生き残っておりませんので詳しい思い出などを語っていただくことはできません。
そこで主催者の方で大まかな記録などを調べていただきましたので今回はこれを参照していただきたいと思います。(資料が配られる)」
特急「さくら」の牽引とヘッドマーク
昭和40年(1965)10月1日-43年(1968)9月30日までの3年間、東京-長崎・佐世保を運行していた20系ブルートレイン「さくら」号の佐世保行き付属編成が早岐でスイッチバックする関係で、短区間ながら早岐区のC11が牽引の任にあたった。(本務ではあったがバック運転で、後部にはそれまで本務機だったDD51が付いた。なお基地へ帰る回送の早岐→佐世保間はC11が正向本務を勤めた。)
これらの列車に取付けられた「さくら」のヘッドマークは特別な演出で、通常はほとんど取付なしで走っており、雑誌の取材やファン・スペシャルなど特別な要望のあった時のみ掲出されたという。
その理由は佐世保〜早岐という短区間であったこと、使用するC11の多くにヘッドマーク架け(ステー)がなかったこと、人員などの諸問題があったことなどがあげられる。
実際に「さくら」の牽引実績を残したC11は昭和40年10月改正時在籍 の160・192・193・308・370と、41・2に門司より転入した194を加えた計6両で、その後308は194転入に伴い廃車、160は行橋、194は行橋?志布志へ、193・370は廃車、192は会津若松へ転出した。またヘッドマーク装着写真が残るC11(趣味誌の記事などで確認できるもの)は160・192・194・370(193と308が不明)である。
これら「さくら」牽引機はすべて解体されて現存していない。190番台はその前後のナンバーが現存しているのも不思議なことである。
※大井川鐵道での「さくら」ヘッドマークの復活
平成8年(1996)SL運転20周年を記念して3/30より「かわね路号」牽引の227号に装着。以降、春の桜が咲く時には定期的にヘッドマークを掲出して走行している。
195「そうかあ、191兄さんと私なんかちょうどその担当したナンバーの両端にいるんですねえ。
栄光のブルートレイン牽引機が残れなくて我々が保存されたというのも不思議なことですね。」
191「まあ廃車時に保存の引き合いがあったかないかでそのカマの運命も決まるし、その時に過去の経歴などがどれくらい価値あるものとして考慮されるか保存に携わった人たちにもよるんだろうね。」
190「うん、192さんも194さんも早岐からさらに会津・志布志へと移って遅くまで頑張ったのだから保存の対象にもなっていいはずだったのだろうけれどやはり志布志まで来ていた松浦線お召しの主役165さんなんかもそうだったように運がなかったのだろうね。」
227「いずれにしてもC11にとっては栄光の記録であることには変わらないわけで、ファンが私たちを語る上でいつまでも話題にのぼるようにしていただきたいものですね。
大井川鐵道での『さくら』列車はそういった意味でも続けていってもらいたいものです。」
●特急『さくら』牽引機192号 1971年4月 「勝手&気まま」佐々木様ご提供
●大井川鉄道の「さくら」ヘッドマーク 2000年4月8日 大和田
「五条川鉄道写真館」吉野富雄様ご提供。
西海を走る 松浦線
190「特急さくら牽引のお話に合わせて西九州方面ですが、こちらではやっぱり松浦線ですね。
今日お越しの方で関係するのはやはり254さんでしょうか」
254「私は製造されてすぐ福知山に配属されましたが、二ヶ月後にははやくも九州入りし、早岐区に配置されました。
昭和19年4月のことで、戦争の真只中、佐世保の近いここ松浦線で軍艦を横目に必死に働きました。翌20年3月には佐々へ移動し、C11がまとまった西九州の代表機関区のひとつとなりました。
ここで約25年を過ごしたのですが、この間小倉工場でこの門鉄デフに改造されました。45年に機関車集約のため再び早岐に戻り、48年3月改正で無煙化となったのです。
その後は会津若松へ移動しましたが、会津でのことは東北地区の会でお話しましたので省略いたします。」
227「松浦線を走っていたお仲間の庫は早岐と佐々だったそうですが、どのような役割分担だったのでしょうか?長距離とはいえローカル線に二つの拠点があったのは珍しいと思ったものでして・・・。」
254「え〜それはですねえ、早岐区は最盛期には松浦線の他に佐世保線や大村線のカマも抱えておりまして、いやこちらの方が主力だったのですが、庫のスペースもさることながら運用の都合もあって昭和19年(1944)4月に佐々区を新設したわけなんです。
早岐は九州で最も早くC11が配属された機関区なのですが(昭和8年10月)、こちらでは西谷峠の補機などの運用もありました。
佐々はC11ばかりの配置でロングラン運用を避けて機関車を付け替えるための中継基地でもあったわけです。松浦線には8620さんも入っていましたが、通しがハチロクさん、区間列車や支線が私たちの担当になっていました。」
190「佐々区はのちに再び早岐に統合されましたよね?」
257「ええ、45年10月に佐々区は廃止となり統合されました。その後約一年で松浦線全体も無煙化となったわけです。」
お召し列車と三重連
227「その松浦線でお召し列車が走ったのは44年頃と聞いておりますが・・・?」
254「はい、あれは昭和44年(1969)の10月末のことでした。残念ながらその列車を牽引した165さん、予備機だった336さん(ともに佐々区)は保存されなかったため、ここで思い出などを語っていただくことはできないのですが、当時同僚だった私から概略などお話しておきたいと思います。」
190「こちらに資料がありますが、松浦線にお召し列車が走ったのは昭和44年(1969)の10月末のことで平戸口-伊万里は8620さんが牽引し、伊万里〜有田間をC11が担当したとありますが・・・?」
254「はい、伊万里構内の配線がスイッチバックになる関係上、8620さんに代わってC11が引き継いだということです。」
190「ありがとうございました。このあたりは当時の趣味誌などにもけっこう記録が残っているのでグラビアなどでよく紹介されているようですね。」
227「この時のおまけ?として牽引機の回送などを兼ねて前後の旅客列車に連結したため時ならぬ“C11の三重連”が出現したこともあったようですね。」
254「それも機関車3両に客車も3両、そして165さんと予備機の336さんと本務のC11284さんとデフの形状が皆違う、といったバラエティ豊かな編成(笑)で訪れたファンには良いプレゼントにもなったと聞いております。」
227「天気もよく楽しいお召し牽引の一日だったのですね。ありがとうございました。」
火の国のC11
190「さて次は私も最後に過した熊本区での思い出などですが・・・。」
61「お召し列車のことはさっき話しましたが、その他にも三角線では急行列車などもひっぱったなあ・・・、もっとも臨時だったけど。」
190「ああ、晩年にもありましたね。確か京都行きの『天草52号』だったかなあ・・。
お正月を故郷で過した方が関西方面へ戻る年始臨で、昭和48年(1973)には1月2-9日にかけて三角発20時20分でした。上りのみの運転で客車は12系6両!」
227「PR列車「ポンパ号」というのもあったようですが・・・?」
190「ああ、熊本で廃車になった91さんのデフを外して無火のまま全国を走った日立とのタイアップ列車でしたね。詳細はこれも主催者よりの資料をお出ししておきましょう。いってみればC11牽引?の最初のイベント列車だったのかもしれません(笑)。」
※「ポンパ号」・・・ポスト万国博対策のDISCOVER→JAPANキャンペーン列車として国鉄と日立家電がタイアップして全国に走らせたPR列車。
98回鉄道記念日(45年10月14日)に品川を出発。C1191(46・12・13熊本にて廃車)はシンボルとして無火で牽引機の次位に連結されていた。なお「ポンパ」とは当時の日立カラーテレビ(キドカラー)の特徴のひとつ「スイッチをポンと引っ張るとパッとつく」機能「ポンパ」からとったもの。
編成は以下の通り。
牽引機+C1191+オハユニ6172(電源車)+オハ612028+オハ612068+オハ61562+オハユニ6174
C1191号は九州が故郷。昭和11年2月、新製と同時に人吉に配置された。
227「三角線の本数などは?」
191「そうですね、最晩年でも定期・不定期あわせて2往復の貨物がありました。もっとも不定期のほうはほとんど走りませんでしたが・・・。」
190「細長い半島を行くのが三角線でしたが、途中には有明海なども見えてなかなか風光明媚な路線でした。」
熊本C11の最後
48・3に3両置き換え、49・4にDD16・DE10に置き換え
48年度のラストメンバーの推移・・・48(行橋へ)・61(★保存)・62(志布志へ)・86(志布志へ)・174×・190(★保存)・191(行橋のち★)・196(小牛田へ)・257(行橋のち★)・259(★保存)・260(行橋のち★) 11両中6両保存
191「その他熊本区の仕業としては矢部線や周辺駅の入換えなどとともに熊本客車区への回送なども受け持っていました。
そのため回送ながらブルートレイン「はやぶさ」などの熊本回転車を牽くこともあったようでこちらにも『C11特急?』の記録があったことも憶えておいて下さい。
もっとも私の記憶違いかもしれません。なにせ写真などで残されたものを見たことがないもので・・・。」
227「これはファンの皆様の御協力をいただいて証拠固めをする必要があるかもしれませんね(笑)。
熊本のC11はグリーンナンバーで良く整備され、さすが九州のカマ!と評判も良かったようですが晩年までこちらもいい働きをしたようですね。」
最南端のC11
190「さていよいよ最後となりました。九州でも南の地区で活躍した仲間の思い出を語っていただきこのブロックの締めとしたいと思います。
最南端といえば鹿児島でしょうが、実際は志布志の方が南になります。
C11の配置でも、鹿児島および都城(支区)に一時的にあったものの、本格的な活躍路線でファンも注目したのはやはり古江(のち大隅)線・日南線・志布志線で働いた志布志機関区の方々でしょう。」
227「ここに最後のメンバー(50・1・20まで残ったもの)が書かれた資料があるのですが・・・41・161・165・★189・194・261・359さんの7両となっていますね。」
190「この7両のメンバーのうち、41と261さんは最晩年に山陰・米子から転じてきた方、165さんはあの松浦のお召し機、194さんは「さくら」牽引実績あり・・と皆さんいろいろな履歴の持ち主、まさに多土済々のメンバーだったようです。」
227「またここに49年3月時点での各地の無煙化による蒸気機関車転配計画というものがあるのですが、これによると倉吉から転入した41・261さんの代わりに廃車となる機番が“257・260”となっておりますね。」
257「え!本当ですか?・・・ということは私と260さんは本当なら志布志へ転属するはずだったのでしょうかねえ。結果的には私は田川の9600さんのピンチヒッターとなったおかげで生き延びたということなのですかね。」
189「でもいまここにいるのは私と200さんだけ・・・ちょっとさびしいですね。
何の特徴もない私なんかが生き残ったのは申し訳ないような気がします・・・。」
260「そうだったのかあ、弟の261とは生まれてからずっと仕事場は別だったのだけれど最後は九州に来ていたんですね。一度会いたかった・・・。」
200「いやいや189さん、そんなことはありませんよ。
地道に走り続けたことこそ最大の特徴ではありませんか! 私も晩年に一緒に仕事ができて嬉しかったし何よりこうして再会できたことにお互いの息災に感謝したいものです。」
190「ところで最南端のC11の仕事はどんなものでしたか?ファンが訪れていた晩年、そう昭和47年前後のことなどお聞きしたいのですが・・。」
189「え〜そうですね、志布志のC11の運用は日南線の貨物が2往復、古江(大隅)線は、志布志〜鹿屋の混合(休日運休)列車が1往復、貨物2往復、不定期貨物が1往復といったところでしたね。国分まで延長開業された時点でもそちらへは入線しませんでした。」
●大隈線の混合525レ 1973年8月10日 撮影TADA
190「日南線ではどのようなところでファンは撮影していましたか?
宮崎口ではやっぱり大淀川なんかは良かったのでしょうねえ。」
200「はい、私たちの運用ではお昼前に宮崎へやってきて14時過ぎに戻ってゆくという時間帯がありました(他は早朝〜深夜)のでC57さんなどに混じってデイタイムの良い被写体となっておりました。」
189「そうそう、大淀川の長い鉄橋を渡って宮崎の庫で大型機の皆さんに会うのも楽しみのひとつでした。」
●大淀川を渡って志布志へ帰る189号 47年8月
200「あとは青島あたりで“鬼の洗濯板”をバックに、なんてガイドしたものもあったようだけれどこれは無理のようでしたね。
でも南国風の椰子の木があちこちに立ち並ぶ沿線ではどこでも日南らしさを見出せる車窓風景がありましたので、ダイヤを見ながら皆さん思い思いにシャッターをきってらっしゃったようです。」
227「その他に有名な撮影ポジションというと?」
200「日南線というと海岸線に沿って走っているというイメージが強いが実際は海が見える区間はあまり多くない・・・というフレーズは当時のガイドではおきまりのように書かれていたようですね(笑)。
それでファンの方々が私たちと日向灘を合わせてシャッターをきるのが海に近付く大堂津-油津間の鉄橋などでした。確かにシルエット写真にも最適で数々の名作も発表されたみたいですね。」
●盛夏の日南線 青島駅を力強く発車する200号 47年8月
日南線の運用 晩年47・3現在 宮崎-志布志 2往復貨物1691-1694レ(他に宮崎-油津間の臨貨が1往復)
※志布志のC11が運用されていた日南・大隅線・志布志線の一部のうち、大隅線は途中の鹿屋までであった。
190「晩年のわずかな期間ですが、宮崎区にもC11が配属されたという記録があるのですが・・・。」
189「はい、前述したように日南線の臨貨用に残っていた宮崎区のC5692さんですが、以前所属もしていた吉松の機関車の寿命が切迫し仲間が足りなくなったため、最後はC11がその役目を代わることになり48年初めに志布志からのC11149が入りました。
その後48・9に熊本から志布志区に移った86号が宮崎区になぜか移動し、48・11に149は志布志へ戻りました。しかしその五ヶ月後の49・4の宮崎区SL廃止により志布志区にスジを統合したため宮崎区でのC11の在籍はわずかな期間に留まったということです。」
※これとは別に昭和39年3月から約5年間予備機として宮崎区にC11291が配属された記録もある。
227「なるほど、ここでも末期の機関車操配のドラマがあったわけですね。
C12さんといい、C56さんといい、南九州の片隅で本当に最後まで頑張っていた姿が思い起こされます・・・。」
189「かくて大隅線は昭和49年12月27日、日南線は翌50年1月20日をもって無煙化となり、ここに九州でのC11の活躍に終止符が打たれたのでした。その二ヶ月後の熊本・人吉地区の無煙化によって九州島内の完全無煙化が達成(さよなら運転や専用線などは除く)されたわけですからC11一族もSL最終期までよく働きました。」
●1973年12月21日 日南線大堂津-油津 391レC11185 撮影TADA
190「どうやらC11をめぐる思い出の旅も九州南端までたどりついたようです。
志布志のC11が火を落としてまもなく30年となりますが、こうして九州育ちの私が動態機として大井川鐵道で煙をあげていることが全国の保存機の仲間たちの想いがあってこそだと感謝しております。
今後も頑張ってまいりますのでよろしくお願いいたします。
また司会にお手伝いをしていただきました227さんにもあらためて御礼申し上げます。」
227「いえいえ、こちらこそ拙い進行で申し訳ありませんでした。
ようやくこの座談会も最終の部を終了できます。
すべての参加C11保存機の皆様本当に長い間ありがとうございました。
これから各保存地へお帰りになってもひとつお体を大切に、また皆さんを訪れるであろうファンとの交流も密にして今後も末永くC11の姿を後世に残されんことを強く念じつつこの部会を終了したいと思います!」
190「では恒例となりました“絶気合図”を吹鳴しこの会の締めとさせていただきます。」
(一同、“ボーッ、ボッ ボッ”の汽笛吹鳴)
第5部 おしまい
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