都電運転士さんに聞く
2004年10月24日 神明町車庫跡の文京区立勤労福祉会館で
おすしさんの掲示板に集まる都電好きの皆さんによるオフ会が開かれました。
ゲストに元大塚車庫の都電の運転士さん、平田さんと尾上さんにお越しいただき
当時のことについてお話をお聞かせいただきました。(文中敬称略)
Q 最近は荒川線ではあまり見かけなくなったのですが、昔はマスコンに毛糸のハンドルカバーがかけてあるのをよく見かけたのですがあれはかけないといけないものだったのですか?
A そんなことはない、ほとんど使っている人はいなかったのはないか?本当はカバーはかけてはいけないものです。
Q あれはどういったことでかけていたのでしょうね?かけてないとビリっときたとか・・
A 我々の時代だったらかけていたらやりにくかった、今の荒川線は椅子もできたし楽になったからかな?
(マスコンは)素手で扱うのが原則だった。2回くらいコントローラーが壊れて外すときに指挟んで怪我したことがある。
そのときは軍手をもってないといけないな、と思ったが素手の感覚がなくてはいけないとお師匠さんからも言われていた。
Q 7001から7019の運転台は狭かったですか?コントローラーとブレーキ弁の位置はどうだったのでしょう?3枚窓になる前ですが。
A 狭かった。改造されてからは良くなった。
Q ブレーカーにはカノピー直接式、カノピー電空式、空気弁電空式とありましたが操作方法に違いはありましたか?
A 操作方法に違いはなかった。我々の時代には上にしかなかった。
Q 都電の乗務員をなさっていて一番大変だ、という思い出はどういうことでしょう?
A (尾上)僕の場合は昭和33年の狩野川台風、文京区役所のあたりから下っているところで、水があふれてマンホールから吹き上げて電車が運行不能になった。
僕が運が良いのは最後の電車で強引に水のなかを突っ走ってお客をおろさないで坂の上まで持って行った。
営業所へ帰ってこういう状態だと報告して、後続電車は全部止まっていた。
それから救援隊を出して、一番大変だったのは文京区役所のあたりは水がそうとう出ていてお客さんも降りられなかった。
それをこの辺まで(胸のあたりまで)水に使って一人一人背負って救出した記憶がある。
そのおかげで交通局から金一封が出た。
電車はモーターに水が入ってだめになったのが20台くらいあった。一時(運行する)電車が減った。
修理は車庫でモーターだけ解体して巻き直した。
あとは自動車が増えてきたこと。だんだん走りづらくなった。
冬場はももひきを履かないと寒くてどうしようもなかった。
Q 乗られていた系統で好きな景色はどこだったでしょうか?
A(尾上)日中はそうはいかないが、始発電車などで千鳥町を出て大塚7丁目(菊坂)、昔は山があったところを陸軍の工兵隊が山を爆破して池袋まで開通した歴史的な経過がある場所。
この坂を護国寺まで下ってくるところは障害物もあまりないし、早朝だと実に電車が快適に走った。
ムードがあるのは本郷三丁目から天神下まで左側に白木があって右が湯島天神、16系統のなかでは印象のある場所だった。
(平田)気持ちがほっとするのは厩橋発車して川を渡るところ、川の流れと空と眺めが開けるのでほっとした。
Q 運転しやすかった形式は?
A(平田)8000、東京駅のあたりの直線コースをぶっ飛ばしたとこがある。
Q 運転本数について、ある方の作ったホームページで昭和43年当時の各系統の運転本数を調べたものがあり、それによると16、17番の大塚仲町から伝通院が両方合わせて一日280本ほどあったというので。
朝夕のラッシュ時などどんな様子だったかお聞かせください。
A 日中は5分間隔だった。
大塚仲町〜伝通院が多いのはひとつはラッシュ対策で向こうからくる電車が遅れた場合、操車場に一番近い折り返し場所が伝通院だった。
また乗務時間が半端になった場合も、30分残っているから上がりたいという人と乗務手当てに関係するので働きたいという人がいた。
当時6時間30分以上乗務すると超勤手当てがついた。そういった関係で伝通院折り返しもあった。
16系統だけでなくて17系統も伝通院折り返しを使っていた。
(操車係の)カンとしてこの運転士は何分遅れてくるから、この後ろに何台くっついてくるというのが分かる。(笑)
16系統でいうと錦糸町のあとに御徒町折り返しを出す、これが基本パターン、この間にもうちょっと仕事したい、と言う場合には伝通院いって上がりにするように出した。
帰りは錦糸町からの電車が遅れていると時間があれば厩橋まで行かせるが、厩橋と御徒町の間は早稲田の電車も入っているので、錦糸町からの電車が遅れても広小路まで出る人が多かったので早稲田の電車でまかなえた。
ということで(大塚では)伝通院か御徒町で出した。遅れてくる電車の前に入るように配車していた。
これが運転士同士でもめる原因にもなった。
前に入るように配車するが、相手が飛ばし屋さんの場合は(折り返し電車の)前に帰ってきてしまう。
そうすると御徒町で出した意味がなくなってしまう。
稼ぎたい人、お客を乗せたい人は広小路でのお客を乗せたいので錦糸町と厩橋までのあいだをぶっ飛ばしてくる。
そうなると御徒町折り返しの電車には乗客が少なくて収入が少なくなる、待っていようとしても早稲田の電車がきたり自分のところの電車がきたりで追い出されたりで無駄が多かった。
ラッシュ時は伝通院折り返しをやらないと配車計画が間に合わなかった。
ダイヤ上は錦糸町2回を御徒町1回が基本パターンで、当時は40分で行ったのが46分になり50分になった。
17番は神保町と八重洲返しと伝通院返しが基本。
伝通院は学校があり、大塚仲町にも学校があったので仲町返しでも十分に採算のとれる客数があった。
ダンゴ運転は禁止されていたが、ラッシュ時はしかたなかった。ダンゴ運転のあとは5分か6分あいてしまうので、その苦情も多かった。
(平田)基本は日中は5分間隔、ラッシュはその間に伝通院とか入ったから2分とかになった。
(尾上)一番短いときで4分、4分で2分・2分で出していたのが基本。
最後は伝通院返しの終車もあった。
(終車の)順番は錦糸町行きの終車が出て戻ってくる前に御徒町からのが入って、その前に伝通院からが戻った。
厩橋返しもあったので4つ最終電車があった。
17系統も同じで伝通院からのは大塚車庫に入った。
最後の人は池袋まで戻って大塚仲町から車庫に入った。最後は数寄屋橋まで行って池袋に行って車庫に入った。
ダイヤとおりに走っていれば5〜6分の間に帰ってきた。
Q 戦前新橋まで行っていた時代に、新橋駅前の土橋のところがループ線になっていたが、こんなお話聞い たことありませんか?
左回りか右回りだったのか知りたいので・・東京駅は5番が右でしたね。渋谷は左回りでしたが。
大正時代に御徒町の折り返しで引込み線だったのですが、なにかご存知でしたら。
A 日比谷で折り返し線使っていたことはあったが・・・
Q 実際飛ばしたというこどですが実際どのくらいスピードが出たものでしょうか?
A (平田)営業の人から35kmと言われていた、表向きは35kmだが、8000形はモーターが155馬力と増えて本体も6000よりも軽いので、50kmは出た。
それで本局のパトカーにつかまったことがある。
(尾上)池袋〜数寄屋橋は10kmほど、ここを始発だと40分のところが半分くらいの時間、22〜3分で池袋から数寄屋橋まで行っていた。
40km以上は出る電車はなかったのでは?
Q コントローラーの電気ブレーキは使っていたのですか?
A (平田)使っていた。運転士は事故起こしたくない一心で止める。
右手でブレーキを回して左手でコントローラーを逆転させて電気ブレーキをかけて足は警笛を踏みっぱなし、それでもうどうしようもない。
(尾上)8000形に乗ったときは電気ブレーキは常用していた。
エアブレーキの利きが悪い車は電気ブレーキで減速してエアブレーキで止めた。
コントローラーは小さかったからブレーキ操作も楽だった。
軽いので制動距離も長かった。3000形運転している感覚だとみんな停留所通過してしまう。
(平田)昔は車が少なかったが車が増えてからは電気ブレーキ使わないと間に合わなかった。
(尾上)大塚仲町と護国寺の間で銀杏の葉っぱひろいをやっていた。
銀杏の葉っぱが軌道にのると電車が止まらなくなる。護国寺の停留所に止まっている電車への軽い追突はよくあった。
その時代には係員が出て警告をするとか砂まきとかやって銀杏の葉っぱのすべり防止をしていた。
(平田)駒込でも東大農学部から赤門まで砂をまいていた。
車輪が止まってもすべっているのはどうしようもなかった。
Q 大塚車庫の場合ドアエンジンはどのくらい装備していましたか。
A 最後のほうは全部あった。
運転士は止まる瞬間にちょっと開けて力使わないで開けていた。車掌の方は反対だからできない。
出るときは反対に閉めるという、運転士にとっては技術だった。車掌にとってはありがたくないことだが。( 笑)
Q 自動ドアになったときワイパーも自動になったのでは?
A ワイパーは8000形は自動だった。
7000のワイパーは手動、3000形はワイパーがないので雨が降っていると息吹きかけて拭いていた。
Q 乙2はハンドブレーキのみで、これの扱いは大変だったと聞いていますがどんな具合だったのでしょうか?
A 私たちは(ハンドブレーキのみの電車を)扱ったことはない。
Q 当時大塚にはハンドブレーキ車を乗りこなせるベテラン運転士さんはいらっしゃいましたか?
A 話は聞いたことはあるが・・・我々の時代にはハンドブレーキだけの電車はもうなかった。
Q トラバーサーは電気ブレーキだけですね?
A そうです。
Q 電気ブレーキだけで止めたということは逆転させたということですか?
A 止まる瞬間には逆ノッチを使っていた。
(尾上)(トラバーサー操作は)1年くらいやった。トラバーサー専門の人がいたが休みなどのとき臨時でやった。
トラバーサーの操作はノッチ1本であわせるので、乗務員からはなにノタノタしてんだ、早くあわせろ!と言われた。
Q 昭和44年ころ車庫のピットの中にテープレコーダーを持ち込んで、3001が入庫してきて、カンカンカンと 点検して、ドンドンとトラバーサーにのってぐぉーん、ぐくーんと最後は逆転している様子を録音しました。
Q 日中は何分間隔というのがあるが、決まったダイヤというのはなかったのですか?
A 車庫にはダイヤ引きがいた、JRのような細かいものではないが。
操車係りはダイヤが引けないと一人前ではなかった、みんな頭のなかに入っていた。
本線のダイヤ、16でいえば大塚〜錦糸町、17でいえば池袋〜数寄屋橋は5分間隔で入っていた。
その間に中間の神保町折り返しとかあった。
操車係りは60分単位で、00分に7000何号、02分に8000何号と記録してゆき、帰ってきたときにチェックして、10分遅れてきたら次は錦糸町までは行かれないから厩橋で折り返しにするなどした。
(乗務員の)交代時間ははどうしても空白になる。
一番電車からの人は13:30から14:00で上がりになる。そのときに電車が足りなくなるので超過勤務してもらってもう一度錦糸町までいってもらう、ということはあった。
Q スタフは使っていましたか?
A 使っていた。たとえば大塚を0分に出ると、大塚仲町が5分、伝通院が10分というようになっていた。
片道用で帰りはひっくり返した。運転士はこれに合わせて走るように指示を出していた。
Q 荒川のスタフを見ると古いものは1分きざみで60とおりあるものと、何時何分発で、というものとありましたが。
A 大塚は主要停留所の通過時間を記載したものを使っていた。
最初は(錦糸町まで)36分くらいで行ってた、何分までに帰ってこいよと、いう時代もあった。
スタフに書かれた時間は基本ダイヤと同じ時間だった。
折り返し時間の余裕は2分しかなく、タバコ一服も吸えないというものだった。
Q 終車の時間は停留所に出ているので、それに合わせて調整してゆくのですか?
A だれが終車を担当するかは出勤したときに決まっている。
夜は遅れることもなかったのでカットすることもなかった。
それを変わらないようにするのが操車係りの腕。
何分までに帰ってこいよと、乗務員に個性も把握していないとだめだった。
勤務体系は24日で一回りするものだった。
終車、午後出、中休、中休、中廃、先頭、公休、と回っていた。
乗務員は7組あり、6組で毎日の乗務を回していた。
1組は大塚では50人(運転士と車掌の50組)で16と17に半々に配車した。
7組が月曜の終車、6組が火曜の終車、と振っていった。
月末の週にはダブル勤務といい、同じ勤務を2日続けて同じ組が担当し、曜日の配列を変えていった。
先頭勤務は13:30〜14:00に上がりとなり、終車の勤務開始は15:00〜15:40なので公休を挟んで48時間あった。
これは終戦後の食料買出しなどに配慮して始まったものだった。
この他に特勤という病弱者などの日勤があった。
Q 中休勤務の間の時間は拘束ですか?
A 基本的に拘束だが、4時間から5時間開く場合は自分の用をたせる場合もあった。
家の近い人は一旦帰っていた。
Q 貸切電車の帰りなどの運転は営業していたのですか?案内人が乗っていると営業したとのことですが、その場合の収入はどちらの車庫になったのでしょうか?
方向幕が出ないところは営業したのでしょうか?
A 金銭の受け渡しは車掌がやっていた。方向幕は自分の路線に入ったら営業する場合は出した。
帰りに営業するかどうかは車庫を出るときに必ず指示が出た。
他の路線で営業することはなかった。
(平田)私が貸切運転したときは方向幕は「回送」だった。
貸切のお金は営業所に払ったのでは?
Q 一番のお気に入りの電車は?
A(尾上)ひとり立ちの時の試験をやった7001形。
5500は乗れなかったけれど運転したいと思った。
7000の50〜60というのはどっしりしていて安心感があった。視界もよかったし運転操作も易しかった。
8000は電気ブレーキを使って止めるような電車だったので好きではなかった。
(平田)大塚には3000が多かったけれど特になかった。
Q 7000の1から19は後に3枚窓に改造されたが、(2枚窓では)柱が前にあって運転しにくかったのです か。
A 大塚には丸の内線の関係で新車が配置された。17にいい電車を入れて16には3000を入れた。
当時新車が何両できる、というと当時の交通局は組合が強くて、各支部長が当局へ掛け合いにいって配 車計画に対して新車を1台でも多くとって来い、と組合員にはっぱをかけられていたこともあった。
三田と上野の間など目立つところにはいい電車を入れた。
お堀のあたりなどのムードのあるところではカーブがきつくて、小型の電車のほうがいいということで1000形などが走っていた。
昔から配置のある電車はそのままのことが多かった、5000は新宿のほうしか走っていないなど。
神明町は小さい電車を使っていた。
我々から見ると三田と青山がいい電車を使っていた。
Q 御徒町から池袋という行き先板がありますが、これは何番の臨時ですか。
A 17番。
Q これはどういうときに出た臨時ですか?
A なにかイベントのあったときかな。
板があるということはけっこう運転してたということだが・・・