電車小僧の写真館

大塚今昔

先日、久し振りに大塚に行ったので、たまたまオフ会で皆様にお見せしようと持ち歩いていた区画整理真っ最中
昭和43年の写真との対比写真を撮ってみました。


大塚南口山田電気区画整理前 S43年



こうやって見ると、36年経っているとは言え、もう別の国の別の場所ですね。
私のような地元の人間でないと位置も分からず、対比写真も撮れませんねえ。

 大塚は3月10日の大空襲で全滅したので、43年の写真では右端の三菱銀行の鉄
筋コンクリート造りを除いては全て戦後のバラック建造物です。

 この辺りは正にガキの頃の私の縄張りで、都電の観察をしたり、悪ガキ共と商店街の売り物のスイカに2Bを仕掛けて爆発させて大目玉を食らったりした懐かしい場所です。

 ごみごみしてましたが昔のほうが絶対良かったですよ。



昔の大塚大和田周辺


これは大塚南口駅前通りの昭和45年と現在との対比です。

 45年の時点で区画整理はほぼ完成して、この駅前通りは幅が以前の倍以上になりました。私が中1の時です。
 通りの拡幅は画面左側の家並みを取り壊したので、ここに見る右側の家並みは昭和30年代から
バブルの前までは余り変化はありませんでした。都電はこの1年後に姿を消しました。
 右端の鰻屋の大和田は江戸時代から続く老舗ですが、この写真の2年後の火事で全焼してしまいました。
 実はその火事の真っ最中、夜中に只ならぬ消防車のサイレンで目がさめた私は、
自宅から8ミリカメラを持ち出して「大和田の最後」をカラー動画に収めました。
 その時、左隣の焼肉屋の山水苑の木造2階建てにも延焼して、一時はもう駄目かと思ったんですが、
屋根と2階の一部を焼いただけで消し止められました。
 その後大和田は火事を機に高層建築に生まれ変わり、現在昔の写真と対比して唯一木造2階のまま
残っている建物がこの山水苑で(ファサード部分は改装されていますが)何となく運命的なものを感じます。



大塚車庫最終日



これは都電大塚車庫廃止当日の昭和46年3月17日と現在との対比です。
 現在、大塚駅前通り東側の2棟の巨大な14階建ての都営アパートと保育園、
出張所がある場所は、元々都電の大塚車庫でした。
 大正時代に造られた車庫営業所の建物は重厚な赤レンガと御影石造りで、
天井が4メートル以上ある本格的な西洋建築でした。 
建物表面のルネサンス風レリーフやアーチ形エントランスなど、
子供の私の目にもとてもエキゾチックで、映画やテレビで見る「外国」そのものでした。
この建物への憧憬が現在の清里の自宅のデザインにも大きな影響を与えたと思います。
 3階建てでしたが、現在の14階建ての安っぽい都営アパートよりも遥かに存在感がありました。
 私の家はこの車庫の向かい側の通りを入ったところで、そんな環境が私を電車好きに育て上げたのです。








今、ここを通ると、住んでる人には誠に申し訳無いんですが、全く何の変哲も無い
無表情な都営アパートになっちゃって、昔、ここに車庫があった事を知る者にとっては
ぜーーんぜーーん面白く無いんですよ。
 とにかく、あの車庫の建物、施設は大正時代に欧米規格で造られたとても立派なもので、
周囲の住民の誇りでもありました。
 ここは昭和20年3月10日の大空襲で130両の電車と共に丸焼けになってしまいましたが、
耐火建築の強みで直ぐに復旧しました。
ただし、この赤レンガの向かって左側の車庫の上屋は復旧されず、口を開けた青空天井と、
ねじ曲がった鉄骨が戦後世代の我々にも空襲の恐ろしさを物語っていました。






ここも、都電が残ったせいか、何だか余り変わっていないような気がしていましたが、
こうやって見ると交番も建替えられ、あのガードのコンクリート製アーチも新建材に変わってますね。






これは大塚駅北口側都電停留所の対比写真です。
昭和42年と昨日(2004年3月12日)です。
この上屋がいつ建替えられたか、私にはとんと分かりません。
いつの間にかこうなっていました。
 前回のオフ会で久し振りに「地面」から6152に乗り込んだんですが、
今の荒川線のプラットフォームからの乗降に慣れたせいか、
「あれ?こんなだったっけ?」と思う程ステップが高く感じました。


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