1978・8 北への旅

学生時代の夏休み、時間はたっぷりある。
お金も贅沢はできないけれどアルバイトでためた。
旅の準備はできた。


鉄道雑誌で一番最初に出会ったのは「鉄道ピクトリアル」だった。
近所の本屋にはピクしか入れてなかったのだが、そのおかげで
「私鉄車輌めぐり」や「失われた鉄道、軌道を求めて」が好きな小学生になった。

あるとき、本屋に見慣れない雑誌があった。D51が表紙の鉄道ジャーナル。
掲載されていた列車追跡シリーズ「北行第53列車」
奥中山に挑む3重連を追った渾身のレポートを何度も読み返した。
それ以後はジャーナルを毎月買った、毎号の列車追跡シリーズはなによりの楽しみだった。

ジャーナルの人気記事の列車追跡シリーズだけを集めた臨時増刊号も出た。
近所の書店には入ってなかったので、わざわざ銀座天賞堂まで買いに行った。
その「臨時増刊・列車追跡シリーズ4」の巻等に掲載されたのが「鈍行日本縦断」
特急・急行の増発が相次ぎ、長距離鈍行列車がダイヤ改正のたびに減っていた時代
最北の稚内から西鹿児島まで鈍行列車を乗り継いだレポートだった。
稚内と西鹿児島、ともにC55の引く列車で旅は始まり終わっていた。
いつかはこんな旅がしたいと思った。


大学1年の夏(1977年)本屋でアルバイトしていたとき
荷をあけた新刊に面白そうな本を見つけた。
地図と切符が散りばめられた表紙の本のタイトルは「時刻表20000km」
アルバイトを終えたその日のうちに一気に読んでしまった。

いったい自分はどれだけ国鉄線に乗っているのか気になった。
当時汽車を追って北海道から九州まで乗っていたが、
いざ計算してみたら10000kmにも達してなかった。
宮脇先生と同じ感想を持ったものだ、まだ半分にも行っていないのか、と。


大学2年の夏、かねてよりの念願を叶える時がきた。


「列車追跡シリーズ」のルポにはひとつ不満があった。
最後もC55の列車で締めるというのは分かるが、やはり最南端まで行ってほしかった。
計画をつくる段階で、ルポとは逆に南から北へ、最南端から最北端へ
スタートとゴールは決まった。
経路はなるべくまだ乗ったことのない路線を選び、宿泊はYHを中心に
訪れたことのない地方私鉄、路面電車を見たり、名物列車に乗るようにプランを作った。

  

1日目 8月12日

枕崎    6:30 734D
西鹿児島 9:26
       9:36 928D
川内   10:47 
      11:02 西鹿児島より直通
薩摩大口13:07
      13:20 435D
吉松   14:12
      14:17 630D
京町   14:25
国民宿舎 やたけ荘泊
  


枕崎駅は鹿児島交通の駅に後から出来た国鉄が間借りする形になっていた。


枕崎で発車を待つ734D 
キロ25格下げ、ロングシート改造のキハ26 600番台にキハ20×2の3連。


枕崎から20.2kmの西頴娃で723Dと交換のために5分停車。

  
指宿枕崎線を乗務する鹿児島車掌区の車内補充券。
駅名の前の○サは薩摩の略。○エは頴娃○キは霧島。


西鹿児島からは宮之城線直通の928D キハ52+キハ20

かつて宮之城線は山野線ともどもC56の引く貨物列車が走っていた。
C56時代は鹿児島区の機関車が川内〜宮之城29.3kmのために
鹿児島〜川内49.3kmを回送する運用が組まれていた。
宮之城線の無煙化はDL投入ではなく、DC列車を混合にすることで行われた。


川内の到着したキハ2連の後部に2両のワムが貨車移動機に押されて連結。




発車を待つ混気928D


川内を発車、ヤードタワーに見送られて宮之城線を進む。





宮之城? サボの運用表らしい。


スイッチバックの薩摩永野。この列車は荷物輸送も引き受けていたようだ。


マイクロバス改造の保線用モーターカー。
なんとも味のある表情だ。


薩摩大口では吉松行き435Dが発車を待っていた。
ローカル駅ながら広い構内に点在する貨車。

この日は吉松から吉都線で2駅の京町の国民宿舎に泊まった。
蒸機撮影に2度利用した宿でヤマケイ「蒸気機関車の旅」で廣田氏が紹介した宿でもあった。
夕方までの数時間と翌朝、吉都線のDFなどを撮影した。

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