「鉄・街・道」831列車様作
撮影者は特記ないものは作者によるものです。
1974年3月石巻線前谷地 C11210
第二部 東北編
227「それでは続いて第二部にまいりましょう。
こちらでは東北編として、青森・秋田・岩手・山形・宮城・福島の東北各県と、本来なら甲信越地区なのですが只見線に縁がある新潟を含めた7県に保存されている方々と、主にこの地区で活躍した思い出のある方を中心に進めていきたいと思います。
こちらの進行担当は真岡鐵道の325さんにお願いいたします。」
325(S21日車 47米沢廃車 新潟県水原町に保存後、平成10年(1998)11月、真岡鐵道にて動態復原)
「みなさんお揃いですね、それではよろしくお願いいたします。
私自身の話は流れの中で出てくると思いますのでのちほどということにいたしまして、まずは東北地方に保存および縁の方を中心にお話を進めてゆきたいと思います。」
(ボッ! ボッ!という汽笛)
227「東北地区保存のお仲間というと・・・?」
325「え〜と、46・63・167・210・244・254・351・367・372さんそれに私ですから10両ということになりますね。
もちろん他地区でなじみのある方、また逆に東北で長く御活躍され、保存地は別という方もおられますので、席がお近くであればどうぞ自由に発言いただいて結構です。
とりあえず話題に入りやすいということで、SLブームの最中での東北C11の現況などを少しお話しておきましょう。
昭和45年(1970)前後を基準にすると、東北でのC11の活躍線区は大湊線(大湊線管理所)、津軽線(青森区)、阿仁合線(大館区)、男鹿線・矢島線(秋田区)、左沢線・米沢周辺(米沢区)石巻線・陸羽東線(陸東石巻線管理所=小牛田区)、そして会津地区の会津・只見・日中・磐越西線(会津若松区・磐越西線会津線管理所の時期もあり)、赤谷線(新津区)、只見線小出口(長岡区〜小出駐泊所)などとなっていました。
他に少数ですが機関区の入換用や保留車などの配置もあり(東能代など)、総数は大体50両前後が稼動していました。」
*只見線の全通(只見〜大白川の開通による)は昭和46年(1971)8月のことだが、この文では蒸気機関車の活躍時期に合わせて、旧・只見線(小出〜大白川)を「小出口」、旧・会津只見線(会津若松・西若松〜只見)を単に「只見」線、会津滝ノ原線(会津若松・西若松〜会津滝ノ原)を「会津」線と表現する場合もある。
227「趣味誌の撮影地ガイドでもC11の走行線区といえば、東北では会津(只見・滝ノ原)が紹介されるのが一般的なのですが、ここが注目されるようになったのは意外と遅かったようですね。」
325「(一冊の本を取り出す)ここにあるのが『鉄道ファンのバイブル』とも言われている『鉄道ファン臨時増刊 蒸気機関車撮影地ガイド』(103 69年12月号 交友社刊)ですが、何とこの号には会津地区は載っていないのです!
勿論初の本格ガイドでしたから編集も試行錯誤だったと思われますが、やはりこの本が発行された昭和44年(1969)当時はまず幹線の大型機や8620・9600といったところがメインと考えられていたようで、東北地区の紹介順でも奥羽本線矢立越え、五能線、龍ヶ森・八幡平(花輪線)、笹川流れ(羽越本線)、米坂線ときて何故か足尾線が入り、また陸羽東線に戻り次は関東の八高線になってしまうのです。
掲載されてないSL走行線区の多くが我がC11の職場というのも、何か形式選定のバランスを欠いているような気もしますね。」
63「なに!米坂線ときたら次は会津だろうが!なんで足尾のC12さんかねえ・・・?
やはり首都圏に近く重連もあったからかいな。
それにしてもまた戻って陸東とは、これは何か作為のようなものを感じますぞ。」
227「63さんのお怒りごもっとも、おっと安全弁が噴いていますよ(と慌てて63さんをなだめる)。
まあこの本が発行された時期はまさにブームの渦中、一年でどんどん状況も変わっていましたので・・ほら翌年の71年版(117号 71―1月)では小出口とともにしっかりと載っていますよ。」
(渡された本を見る63)
「うん、まあいいでしょう。
しかしこの小出口の記事は写真が古いなあ、88さんや334さんが写っている。
なになに?『只見線は一度無煙化されましたが、冬期に限りまた運行されることになりましたので記事は積雪期ではありませんが紹介します』だと!結局このガイドが役にたったのは46年の年末から
春先だけだったのだなあ。」
227「それほど撮影地ガイドを掲載するタイミングというのは難しいものだということを理解しようではありませんか。
パソコンもインターネットも情報誌もない時代のことですから・・・。」
325「大体の当時の事情も思い出していただけたのではないでしょうか。
それでは本題の個々の保存機の方々のお話を伺うことにいたします。」
北東北のC11たち
325「今回は保存場所の北の方から御発言をお願いします。では167さんからどうぞ。」
167(S15汽車 48―9大湊廃車 青森県青森市合浦公園保存)
「とらやの写真箱」寅さんご提供
「青森市内から4キロ程離れた公園におります167です。簡単に経歴などを申しますが、私は戦前からほとんど大湊の地を離れたことはなく、一時尻内(現・八戸)にいたこともありますが、またすぐ舞い戻り、生涯のほとんどを下北半島の鉄路で過ごしました。
48年9月に役目を終え、地元むつ市の運動公園に保存が内定したのですが、その後6年あまりも青森区に留置され、結局保存は中止となり、この時点(53―8)で国鉄が処分保留として保管していた最後の蒸機のうちの1両(他はC11180・224)にもなってしまったのです。
むつ市に余裕がなかったのでしょうか?行く末を案じておりましたが、何とか留置の縁もあったのかこうして今は青森市内におります。」
325「なるほど、167さんは大湊ゆかりのC11の代表なのですね。
ところで当時のお仲間はどういった方々でしたか?」
167「はい、晩年のことしか覚えていませんが、45年頃は私のほかに224さん、225さんの御兄弟の3両でまかなっておりました。
大湊の無煙化は意外に遅く49年3月24日なのですが、私は前年に引退しましたので最後のメンバーなど細かいことはちょっとわからないのです。」
325(近くにいた224に向かって)「224さんは確か大湊線の最後までいらっしゃったようですが、いかがでしょう、内地での思い出などは?」
224「ああ、そうでしたね。私は大湊でのC11の最後の1両でした。
仕事がなくなって庫でぼんやりしていたところ5月になって『もうひと頑張りしてくれや』と声がかかり、北海道へ来たのですが、下北も気候厳しきところでして、寒風吹きすさぶレールの上を毎日走ったものでした。
いや、おかげで潮風には強くなったので、道東でもなんとか働けましたよ。
167さんもお元気そうで何よりです。」
*46―1末の大湊線仕業は貨物のみで大湊〜野辺地を往復する行程が二つあった。
(792~793レ 794~791レ)
167「ところで224さん、あの時はたいへんでしたね。」
325「あの時とは?」
224「ああ、十勝沖地震のことですね! あれは確か昭和43年の5月16日のことでした。
私は貨物列車を牽引中に地震にあい、川代付近で隆起したレールに乗り上げ脱線してしまったのでした。
大畑・大湊線もかなりの被害を受け、あちこちで寸断されてしまい、ずいぶん不通となったものです。折からの合理化が叫ばれていた時期ですのでこのまま廃線、そして私も廃車になってしまうのでは・・という不安がよぎりましたが、関係者の方々の必死の復旧作業のかいあって私も復活することができました。」
325「そんなことがあったのですか、知りませんでした。」
227「青森県内には210さんもいらっしゃいますが、何かございますか?」
210(S17日立 49小牛田廃車 青森県下北郡野辺地町愛宕公園保存)
「私は先程北海道地区の話に参加してあらかたしゃべってしまったので、このあとは最後の働き場所だった石巻線のあたりでまた加わります。
ちょっと喉が乾いたので水でも飲んで来ます・・・。」
(210はとことこと給水場まで行ってしまう)
227「では青森付近から今度は秋田近辺に保存あるいは思い出のある方についてお話ししていただきましょう。となると372さんになりますか?」
372(S22日車 49―6弘前区廃車 秋田県鷹巣町花園児童公園保存)
2004年8月9日 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供
「どうもこんにちは、鷹巣町から来ました372です。
みちのくの匂いがしみついたC11です。
現在は秋田内陸縦貫鉄道となった旧・阿仁合線の始発駅、鷹巣町の公園におります。
状態はまあまあですが、雪国のこととて冬の寒さは露天なのでちょっとこたえますね。
昔の事はあまり覚えていないのですが、戦後生まれの私は今日おいでの367さんや368さんほか連番の兄弟として24年頃に小牛田に新製配置されたのだと思います。
そこで20年ほど過ごしたのち、44年9月に米沢へ移動しました。
そして晩年は津軽の中心・弘前に腰を落ち着けたわけです。
最後は入換えが主でしたので、貨物を牽いて働いた米沢や陸石での思い出の方が強いかなあと感じています。」
325「秋田や山形周辺のローカル線というと大体C11の仕事場だったようですね。」
372「そう、それも大体貨物が1〜2往復、そして朝に上り、夕に下ってくる蒸機牽引の通勤・通学列車が1往復(または片道)ある、といった感じのダイヤも似ていました。
津軽線(客レは蟹田まで)、阿仁合線(客レは阿仁合まで)、男鹿線、矢島線、左沢線・・・・・。」
*
津軽線 青森区C11運用(46―1)
青森〜(回客)〜蟹田〜客〜青森、青森〜貨〜三厩〜貨〜青森 の2仕業
操車場・運転所間の小運転・入換などは除く
227「なるほど、支線で頑張っていたのがよくわかりますね。
ただどうしても東北では幹線をゆく大型機に目がいってしまい、なかなか余裕のある方でないと1日数本のC11しか走らない線では訪問されなかったでしょうね。
だから地元のファンなどの貴重な記録は大切にしたいものです。」
325「ちなみに秋田周辺のこれらの路線からC11が消えたのはいつ頃だったのでしょうか?」
372「たしか私は阿仁合線の最終列車を牽いた記憶があります。そう昭和49年(1974)3月25日のことでした。
あの日は前日(24日)の夜、237レを牽いて阿仁合に泊まり、翌朝の222レで鷹ノ巣へ戻って役目を終えたのでした。
矢島線はだいぶ早く47年10月に無煙化、男鹿線はいつだったかなあ?」
227「(資料をめくりながら)え〜とこちらも47年10月のダイヤ改正時となっています。
ということは秋田・青森あたりは大体47年に消えたということになりますね。
羽越電化が同年10月ですからそれに合わせて近代化を、という声もあったのでしょう。
C57・D51さんを追いかけるのに目を奪われているうちにいつのまにかいなくなっていたというのが現実だったようです。」
※主な東北C11運用線の無煙化時期(早い順)〜45年以降
赤谷線45―10、津軽線47―3、男鹿線47―10、矢島線47―10、左沢線47―10、大湊線49―3、阿仁合線49―3、石巻線49―3、会津・只見・日中線49―9
ちなみに秋田県内最後の蒸機となったのも49―3―25の阿仁合線の372号であった。
372「そう、逆に大湊や阿仁合のように煙がわずかに残っていても49年ともなると、もうファンの目は東北の小線区より津軽海峡を越えたところにいってしまっていたから、これまたひっそりと、という感じで引退しちゃったのですね。
石巻さんや会津さんは渡道の行き帰りに寄るのにはちょうどよい距離が幸いしていたようですが・・
・。」
325「赤谷線あたりはどうだったのでしょう?私が保存されていた水原も近かったので気にはなっているんですが・・・。」
245(S18日車 47新津廃車 神奈川県藤沢市鵠沼保存)
「それは私がお話しましょう。
赤谷線は古くは新発田に常駐して働いていたのですが、その後新津に移り、45年10月頃にお役御免となりました。
ただ機関区や周辺の入換えの仕事は残っていましたので、私も47年頃までおりました。」
63「私も只見線(小出口)での引退後、新津に少しお世話になりました。」
1972年5月21日新津機関区 背面トラの245号機 撮影TADA
227「内陸部、というか奥羽筋では米沢周辺でも遅くまでC11は残りましたね?」
372「ええ、左沢線のほか、赤湯からの長井線や9600さんの去ったあとで一時的に米坂線の米沢口で仕事をしたり、結構こまめに働いていましたよ。
45年当時、米沢にいた仲間は7両で、そのうち4両が保存されたというのも幸運でした。
(233・239・★240・★275・★325・359・★372)」 ★〜保存車
275(S19日車 46―7米沢廃車 栃木県大田原市保存)
「おっと米沢のことですね?いやいや関東地区の会で順番を待っていたのですが、やはり最後の地のことになると顔を出したくなります。
米沢は古い煉瓦造りの庫がいかにも蒸機の寝ぐらにふさわしいもので、特にヌシであった大正生まれの9600さんにはぴったりでした。
今は新幹線も通り昔を知るものにとっては見るも無惨な光景ですが・・・。
その米沢のC11というと皆さんの記憶もあまりないようなのですが、372さんがおっしゃった通り、けっこうあちこちで仕事をしていました。
定期としては左沢線ぐらいでしたが、山形への通勤通学の方が多かったので他地区と違った8両あまりの長い編成だったので力も入りました。」
*
左沢線 米沢区C11運用(46―1)6仕業
山形〜左沢 貨物2往復、客車1往復、山形〜寒河江 季節貨物1往復
(奥羽本線)山形〜神町 貨物1往復、山形〜蔵王 貨物1往復
372「それで275さん、現在の御様子は?」
275「はい、私は米沢で廃車になったあとなぜか栃木県の大田原市に移送され、交通公園の展示物としてチビッ子に親しまれて来ました。
しかし数年前に公園の廃止や老朽などのためあわや解体の危機となったことがありました。
幸い地元の工業高校の生徒さんが私の補修や整備をかってでてくれて、少しずつ状態も良くなりつつあります。
詳しくはまた関東の会でお話しいたしますが、ともかく大田原での暮らしももう30年、いろいろありました。」
325「ありがとうございました、青森・秋田・山形の3県のみなさんの御紹介が終わりましたので(注:岩手県内のC11保存は内定はあったものの実施されていない)次は宮城県に移りましょう。
こちらも49年まで煙の残った石巻線で活躍された方々ですね。
所属は小牛田機関区(陸東石巻線管理所)ですか。」
227「陸東のC58さんでも有名だった庫ですね。」
1974年3月 米どころを走る 石巻線のC11 210号機
325「だんだん南に下がってきましたが、いよいよC11が晩年まで活躍した南東北の路線となりました。
まずは仙台平野のササニシキのふるさとを走っていた石巻線に縁の皆さんです。
所属は小牛田機関区ということで、時代によっては『陸東石巻線管理所』とも称していたことがあるようですが、ここではすべてお馴染みの小牛田区で通させていただきたく思います。
それで今日お越しの方で関係の深い方は・・・367さん368さん372さんとあとは63さんも末期に在籍していますね。
北海道部会におられた210さんもそのようです。
それと117さんですが・・・お姿が見えません。」
227「117さんについては廃車後、49年4月にオープンした高知県中村駅前(現・土佐くろしお鉄道)の『SLホテル』のシンボルとして保存されたのですが、第一号のSLホテルとして華々しくスタートしたものの、近年廃業になってしまい117さんも老朽化のため解体されてしまった、ということです。
1979年3月9日 中村駅構内でSLホテルとして営業していた117号機 撮影TADA
SLホテルの閉鎖による惨状は各地で聞きますが、その先頭に置かれた機関車だけは何とか再整備されて保存されるケースが多いものの117さんはうまくいかなかったようで残念です。」
1972年12月 石巻線 C11117
325「石巻線では結構人気があったと聞いていますので117さんの解体は惜しいことです。
では気を取り直してまいりましょう。
まずは石巻線のC11の拠点であった小牛田に保存されている367さんからどうぞ!」
367(S21日車 48―6小牛田廃車 宮城県小牛田町保存)
2006年2月16日「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供
「それでは先陣をきらせていただきます(笑)、石巻線の寝ぐらであった小牛田におります367です。
私と小牛田とのおつき合いは長く、同区にC11が初めて配置された時に同じく新製配置車として私のほか366・368・369の連番兄弟、ひとつおいて371・372と計6両でスタートしたのです。
以来20数年走り続け、お役御免になったのは48年の6月でした。
まだ無煙化までは間がありましたが、上の方で『もうお前はいいだろう』というお達しが出たので後輩に席を譲り引退したのです。
ちょうどメンバーの入れ替わりも激しい時期で、ともに働いて来た新製投入時の仲間もこの48年ですべて消えました。
幸いにも私はその経歴もあってか地元に保存が決まりましたのでこうしてまた皆さんとお会いできたわけです。
そう368くんもその幸運な仲間のひとりでした。」
1972年12月 小牛田 C11367
368(S21日車 47―7小牛田廃車 東京都中野区文化センター保存)
「やあ兄さんお久しぶりです。今日は東京中野からの出席です。
私の紹介などについては兄さんがすべてお話ししていただけたので特に追加はありません。
まあ引退が兄さんより一年程早かったのが違うぐらいであとはほとんど同じ人(カマ)生を過しました。
新製から廃車まで同じ機関区で過した兄弟機でともに保存されているっていうのもちょっと珍しいんじゃないかな?」
325「そのようですね、で石巻に馴染みの方というとどのような仲間がおいでですか?」
367「小牛田のC11は引退まで常に6〜8両前後の配置で推移していました。
当初のメンバーは先程申した通りで、途中114さんなどが加わったり若干の出入りはありましたが概ねあの6両が僚機でした。
372さんは早くに移動し、代わりに117・237・350さんなどが入り、ブームの頃では(47―3末)117・237・276・350・363・367・368・369の8両となっておりました。」
368「そうだったなあ、僕はこの時点では残っていられたけれど7月に廃車になってしまったんだ。
翌年までの入れ代わりはけっこうあって、僕の他に237・276さんが廃車、代わりに奈良より175さん、大湊より215さん、秋田より249さんが入って現状は維持したけれどなんとなく末期の感がしていたよね。」
367「この時点で古株の最後となってしまったのが私なんだけれど、翌49年3月までには2両減って6両になってしまうんだ。
またメンバーも5両増の7両減という大幅な入替えで、もはや検査期限のあるものから食いつぶしていこう、という当局の経済的事情も垣間見える配置転換でした。
48―3から49―3までの一年間に廃車となったのは私(★367)・★117・175・215・350・363・369で、代わりに4〜5月に新津から63と240さん、9月に釧路より172さんと熊本より196さん、そして最後の名物?機になった210さんが10月に苫小牧からはるばるやってきたわけです。」
325「なるほどかなり顔触れも変わったのですね。昨年来た時はいたあのカマがもういない・・、なじみになったファンはがっかりしたことでしょう。
しかし同時にSLもいよいよ最後かの感もあらたにしたのではないでしょうか。
そして遠く熊本や北海道からきたC11は本当の『最後のお勤め』に力をふりしぼっていたことでしょう。」
227「それで石巻線のラストというのは?」
63「最後まで在籍していた私からお話いたしましょう。
石巻線の無煙化は49年の3月26日で、翌日からDE10さんにバトンを渡しました。
なお同時に陸羽東線の朝の通勤列車1721レ(上りは回送)の牽引も引退しました。
最後は大幅なメンバーチェンジがあったため、小牛田生え抜きの方はすでに皆さん引退されていて、残った6両では210くんが保存、240くんと私だけが生き残って会津へ移動、172・196・249くんは廃車〜解体となってしまいました。
特にさよなら行事などは行われなかったひっそりとした引退でした。」
※石巻線の無煙化日は3月24日としている記述もありますが、古川市のhal様、会津のけむり様から26日まで運転していたという情報をいただきました。
1974年3月18日 小牛田に戻ってきた回726レ C1163 撮影TADA
227「どうもありがとうございました。だいたいの石巻の状況はわかりましたので、それでは小牛田での思い出でなどもお伺いしましょう。」
367「大したことではありませんが、めったに優等列車は走らない石巻線にも時として臨時急行などが設定されることがあり、その時は私達が客車を牽いたものです。
C11牽引の客車急行も晩年では珍しいものだったのではないでしょうか?
例えば昭和48年のお盆には女川発上野行きの急行『おしか』号が運転されました。
(小牛田〜上野は『まつしま55号』に併結)客扱いは上りのみの運用でしたが、6両の客車列車は陸東の通勤も牽いていた身になれば楽なものでした。」
325「沿線ではどんなところでファンが撮影していましたか?」
367「そうですねえ、小牛田〜石巻はお話ししたようにほとんど田んぼの中を行きますのでどこも似たようなものでした。
本数を稼ぐためにダイヤ中心で計画を立て、その場所でアングルとかに変化を付けていた方が多かったようですよ。」
210「多少変わっていたのは前谷地のトンネルと曽波神あたりの山裾ぐらいかなあ、あとは勾配が石巻までは緩やかなので煙をはくのは駅の出発ぐらいだったし・・・。」
367「石巻にターンテーブルがないので多くの列車は上りが逆行だったことも親切にガイドには書いてあったらしいよ。」
227「石巻から先はどうだったのでしょう?」
368「まず石巻を出てすぐ渡る旧北上川の鉄橋がポイントでしたか。あとは渡波付近とか静かな万石浦をバックに走る我々もまた幸せでした。
また終着駅の女川も頭端式ホームで、別に側線があってそれが港の方へ伸びているのも風情があって良かったです。
その隅でひと息入れてターンテーブルに乗り、水揚げされた新鮮なお魚を運んで帰るのが日課でした。」
210「まあこの区間は何分列車本数(蒸機牽引)が少ないのでファンの方は小牛田寄りに集中してたよね。
女川までは朝の8時頃に下ってきて午後2時頃に戻ってゆくダイヤが多く、あとは夕方6時近くだから撮影には厳しかったかも。」
367「涌谷・前谷地・佳景山・・、みんな平凡なローカル駅だったけれど、どこで降りてもそれなりに田園風景の中を行くC11が撮影できたみたいだし、我々も精一杯働いたという感じでしたね。」
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