煙の座談会
C11 70年の生涯を語る

〜保存機たちの四方山話〜
第3部 関東・中部・東海・北陸編

「鉄・街・道」831列車様作

撮影者は特記ないものは作者によるものです。


1988年7月23日 大井川鉄道 福用〜大和田 101レ C11312+C11227 撮影 TADA

227「こちらでは主に関東から西の地域に保存の皆さんから思い出話しなどをお聞きしたいと思います。主なメンバーは1号さんをはじめ、155・217・245・265・275・292・296・304・312・322・368さんとなります。
なお司会進行は引き続き325さんと私227が担当いたします。」

※第三部の都県別C11保存車数(動態含む 02―2現在)
 東京2 埼玉2 栃木2 茨城・群馬・千葉・山梨0 神奈川1 長野0 岐阜1 愛知2 静岡3 富山1
 石川0 福井0 計14両

325「それでは皆さんの自己紹介をお願い致します。まずはやはりトップナンバーの方を外すわけにはまいりません。青梅の1号さん、どうぞよろしく。」


  1(S7汽車 37―10大宮工廃車 青梅鉄道公園保存)
                    
                        2002年10月14日 鉄道の日」
「再び顔を出しました1号です。
先程お話した通り、私が誕生して70年、そして青梅の丘の上に鎮座?してもう40年の月日が流れてしまいました。
もうみなさん御存知でしょうが一応簡単な経歴を話しておきましょう。
私は昭和7年に汽車会社で製造され、すぐお膝元近畿地区に配属されました。8年には奈良にいた記憶があります。その後福知山に移り、30年代後半ともなればようやくファンの方もちらほらと私の姿をカメラに収めに来るようになりましたが、時あたかも鉄道開業90周年を迎え、私がその展示機関車に選定されてしまいましたので、早々と第一線を退く事になりました。
まあそれでも約30年働きました。
なお廃車区は福知山ではなく、展示整備でお世話になった大宮工で37年10月26日となっています。」
325「ほう、もうそんなになりますか。」
1「はい、青梅も当初は『機関車に触れあいながら鉄道に親しまれる公園施設』として人気も高かったのですが、逆にそれが災いしてか私の体は他の機関車さんと同じく子供たちの遊び場と化してしまい、部品の破損や紛失も相次ぎとても『記念保存車』と言われるようなものではなくなってしまいました。
また青空の下といえば聞こえはいいのですが、要は露天ですから雨風による老朽も甚だしいのです。
外側は定期的に整備や補修は行われておりますが、見えない所は結構痛みがあります。」
227「なるほど、当初の崇高な保存目的と公園施設としての親しみやすさとの折り合いがうまくつかなかったということですね。」
1「ええ、確かに子供は元気な方がいいのですが、やはり記念物であったり歴史的に価値あるものとして保存されたという経過もあるわけですから、その大切さということにももっと配慮していただきたいと思うのです。
私はともかこの青梅には1両しか現存しない方や、非常に歴史的・文化的価値の高い方もおられます。
110号さん(鉄道開業時の機関車で鉄道記念物)なんかはもう充分ここでの務めは果たされたと思いますし、先頃オープンした『旧新橋停車場』に移られた方がずっと意味のあるものだと思うのですが・・・。」
325「そうですね、確かに青梅の皆さんや1号さんのあり方も考えを変えていかなければいけない時期に来ているのかもしれませんね。」
227「ところで1号さんは何か外見上の特徴などはありますか?」
1「そうですねえ、やはりC11の一次形といえば蒸気ドームが前・砂箱が後ろという配置が外見上では目立つわけですが(23号まで)、このスタイルを保っているのは遅くまで残っていた会津の19号さんが保存されなかったので私だけになってしまったようです。
あとデフステーがアーチ状に湾曲しているのもちょっと変わったところでしょうか。
このスタイルはなぜか福知山周辺の仲間に多かったようで、今日もおいでの40号さんや、津山線などで活躍した77号さんなどもそうでした。」
227「関東特に首都圏とC11ということで考えてみると、意外と馴染みが少ないような気がします。
もっともオールドファンの方々にとっては五日市線などがあったのでしょうが、いわゆるSLブームの頃にはすでに1都6県周辺で本格的なC11の走行路線はありませんでしたから。
関東近郊のローカル線はC12さんが中心で、さて入換えは?というと工業地帯の膨大な量の貨物を捌いていた広大なヤードは煤煙防止もあって先行してDL化が進められたせいもあって、最後の牙城の浜川崎も30年代後半にはC11は引退してしまったようですね。」

※関東地方のC11配置区(昭和40年〜1965)
高崎2、渋川(支)4、桐生2、浜川崎15、茅ヶ崎5、国府津2、大宮工1
                   
                            国府津のC112 
                   「フジシローの鉄道写真館」(休止中)フジシロー様ご提供
325「私、茅ヶ崎におりましたので覚えています。晩年は相模線で貨物を牽いたり、周辺駅の入換えなどしていました。
余剰となった仲間などは工場が手一杯の時などは横須賀線の久里浜の側線に集められたりして最後を待っていたということです。
その中にはラストナンバー機の381さんの姿もありました。それを思うといま健在なのが不思議なくらいです。
                       
                     1966年 久里浜に留置されたC11381
                  「フジシローの鉄道写真館」(休止中)フジシロー様ご提供

では続いて304さんどうぞ。」

304(S20日車 44茅ヶ崎廃車 埼玉県蕨市交通公園保存)
                     
                           2006年3月30日 撮影TADA

「そうですね、なぜいま私がこの蕨にいるのも奇妙な感じです。
この蕨にかつて私を作ってくれた日本車輌の蕨工場があったからかな?などとも考えておりますが、ええ無論私は蕨で作られたのではありませんがね・・・おっと自己紹介でしたね。
といっても戦後生まれの私にはそれほど歴史はありませんで、生まれてほどなく茅ヶ崎に住み、ほとんどそこで過しました。廃車も40年の同区です。
現在は埼玉県の蕨市にある交通公園におりますが、ちょうど西川口と蕨の中間あたりで東北本線で大宮の方へ走ってゆくと車窓左手にも見えますのでお気付きの際はぜひ途中下車して寄ってみてください。」
                  
                       1962年5月 相模線厚木 C11304
                     「モノクロームの残影」(休止中)忠賢八高様ご提供

275(S19日車 46―7米沢廃車 栃木県大田原市保存)
「私も戦後しばらくは茅ヶ崎におりました。その頃はまだ私も戦時設計の姿のままでした。」
325「おお、そうすると茅ヶ崎にいたことのある仲間が関東にはけっこう保存されていたのですね! 意外な共通点があるものです。」

※275の茅ヶ崎での姿は『懐想の蒸気機関車』(久保田博 著 交友社刊)の110ページに掲載されている。

227「茅ヶ崎グループの懐かしいお話ありがとうございました。その茅ヶ崎に一番近いところにおられるのが湘南の245さんですが?」

245(S18日車 47新津廃車 神奈川県藤沢市本鵠沼運動公園保存)
                   
                         2005年8月23日 撮影TADA

245「ええ、私自身は前の会で話しましたようにもっぱら新潟周辺で働いておりましたので、特に関東やこの保存場所である湘南に馴染みがあるわけではありませんが、皆さんのお話を聞いておりますとあながち湘南もC11と無関係な土地ではなかったんだなぁ、と感じております。」
※245号の廃車は47年新津ではなく、48―3に会津へ転入しその後小牛田へ移って49年3月26日の陸羽東線と石巻線の蒸機運行最終日まで働いたという記録があり、廃車は49年・小牛田区に訂正します。
(245の移動と小牛田無煙化日については「会津のけむり」様、古川在住の「hal」様より御教示いただきました。)

325「現状はいかかでしょう、245さん。」
245「う〜ん、やはり露天ということであちこちに痛みはきているようです。
整備自体は時々していただいておりますので外観はまあまあなのですが・・・
あ、それから古い話で申し訳ありませんが、私が湘南の保存地に搬入される模様はかつて記事になったことがありますのでお気付きの方は御一読を。」
325「ありがとうございました。次は東京に戻って中野に保存の368さんどうぞ。」

368(S21日車 47―7小牛田廃車 東京都中野区文化センター保存)
               
                    2003年4月16日 撮影 TADA

「1号兄さんとは親子ほども離れた?ナンバーの末弟に近い368です。
製造年数にしても14年違いますし、もちろん戦後生まれです。
それだけC11が長期にわたって作られていたということなのですね。
さて1号さんのいる青梅から中央線の『青梅特快』に乗り、若者のまち・中野で降りていただければ徒歩数分のところにある文化センターに私はおります。
自己紹介や現役時のことは先程東北地区のところでたっぷりと話させていただきましたので省略いたします。」
227「現状はいかがでしょうか368さん。」
368「はい、私のいるところは図書館などが入った区の施設『中野文化センター』の一角でして、屋根付きでホームや信号機などの演出もあります。
ですので環境はいいのですが、陽当たり良好のためかここに住み着いてしまわれる方がおられるのには
閉口しています(笑)。部品も一部紛失したりしているので、もうすこし管理に手を入れていただければなあ、と思っています。
325「都会の保存機共通の悩みといったところですね。
ではもっと都心の新橋へまいりましょう、292さんどうぞ。」

292(S20日車 47―9品川廃車 東京都港区新橋 JR新橋駅前保存)
                  
                              2003年1月

「新橋の駅前機関車・292です。368さんの中野からですと再び特快(快速でも可)に乗って東京まで、そして乗り換えて二つ目が新橋です。
保存機訪問の方はぜひこのルートで(笑)、でも神田で降りて交通博物館へ寄ってもいいですよ。
大先輩の1号機関車さんやマレーの9856さん、そしてC57135さんなど多くの機関車の仲間もいます。さて私のことですが、鉄道発祥の地の玄関口に置かれているものの、当地や関東に馴染みというわけではありません。
元々は関西育ちで、もっぱら姫路周辺で働いておりました。
最後は播但線の姫路口の通勤列車牽引が主な仕事でした。
47年3月に無煙化となり、仲間の転出や廃車を見ているなか、引き取り手もなく『俺はどうなってしまうのかなあ・・?』と気を揉んでいました。
そこにたまたま同年10月の鉄道100年というイベントにぶつかり、『やはり新橋にも何か記念のものを展示したい、できれば話題のSLはどうか?』という意見が国鉄部内であったのかどうか、はわかりませんが、とにかく役目を終えて暇を持て余していた私に白羽の矢がささり、鉄道発祥の地である新橋とうこの上もない場所に保存となったのです。」
227「それは幸運でしたね。数多くおられた蒸気機関車の中で我がC11一族の仲間が新橋に保存となったのはたいへん嬉しい出来事でした。」
292「いや、もっとも私のいるのはかつての新橋(汐留)駅ではなく、山手や京浜東北、東海道線が行き交う今の新橋駅の西側広場でした。
近いと言えば近いのですが、記念保存車としての注目は一時的なもので、最近は単なる駅前の飾り物と化している部分も多分にあります。
体中にへたくそな七福神の絵をペイントされたり、クリスマスの時期になると派手なイルミネーションを付けられてピカピカ光ったり・・・、まあこれも地域の活性化の一環ですので我慢しています。」
227「いろいろ皆さん御苦労があるのですね、お察しします。」
325「新橋界隈も最近は東口の方が脚光を浴びているようで、汐留駅の復活(ゆりかもめ&都営地下鉄大江戸線)もあったし、旧・新橋駅の復原工事も進んでいるようですね。
292さんも元祖新橋の主?としてまた頑張って下さい。」
292「ありがとうございます。幸い先年お化粧直しをしていただきまして、中身はともかく?外観は黒光りしておりますのでまだしばらくはサラリーマンの友として頑張っていけそうです。
ああそういえば新橋駅復原のことですが、なにやら駅の反対側が賑やかなのはその工事のせいもあるのでしょうね。え?私が復原駅舎のそばに移転するのもいいですと?ふむふむ面白いですねえ、なにせ私は姫路からこちらに送られて来た時、便宜上最後の配置として品川に籍をおきましたし、現在の場所へ落ち着く時も最後に線路を離れたのが汐留駅だったのですから・・・、いわば『最後に汐留=新橋に足を記したC11』というわけですからその資格はあるわけですね。いやこれは冗談(笑)。」

※ 執筆時点ではまだ工事は完成していなかった。なお「旧新橋停車場」は平成15年(2003)4月20日に公開された。

227「新橋から少し北へ戻って埼玉県へいきましょう。
蕨の304さんは先程御発言がありましたので、高崎線の鴻巣からおいでの322さんどうぞ。」

322(S21日車 44大宮工廃車 埼玉県鴻巣市東裏1号公園に保存後、平成12年[2000]8月同市中央「せせらぎ公園」に移設)
                   
                      鴻巣市本町せせらぎ公園 03ー7撮影

「はい、私も戦後生まれのC11です。関東生え抜きの生き残り、とでもいうのでしょうか 20年代から廃車までずっと関東地方の機関区で過しました。
古くは渋川におり、長野原線(現・吾妻線)などを走り、30年代には五日市(武蔵五日市)に移って首都圏ではおそらく最後であっただろうC11牽引の客車列車などを牽いておりました。
最後は大宮工場の入換で余生を過しており、C1229さんや85さんなどとともに煙突前に鐘を付けて♪カラ〜ン・カラ〜ンとのんびりやっていました。
廃車が44年と比較的早かったものの、その鐘も保ったままで鴻巣に保存されました。」
227「聞くところによるとかねてから噂のあった大宮の鉄道記念館?の構想も具体化したようなことですので、その際はぜひ馴染みの322さんも保存の仲間にいれていただきたいものですね。ありがとうございました。」

川根路の煙
325「では引き続いて動態保存のパイオニア・ここ大井川鐵道で御活躍中の皆さんにお話を伺いましょう。」
227「いや、あらためてお話する事はないのです。現状等はもう皆さん御存知でしょうし、今回は現役時のお話が中心なのであらためて話題にするというのも気恥ずかしいのですが、簡単に私の大井川入線当時のことでもお話しましょう。」
1「たしか227さんは現役当時はずっと北海道で過されたと聞いておりますが・・・。」
227「ええ、生まれは昭和17年で、新製配置は苗穂機関区でした。その後道内のあちこちに移動しましたが、ブームの頃の晩年はもっぱら苫小牧におりましたので、日高の二つ目C11に混じって働いていたのを見かけたファンの方々も多かったことでしょう。
最後は釧路でしたので、現役時(今もそうですが国鉄在籍時ということで)の私の姿をカメラに収めた方はやはり標津線と日高でのことがほとんどでしょうか。」
※ 227を始めとした北海道(=国鉄)最後のC11をめぐる数奇な運命の話は「北海道編」を参照してください。
なおこの文で紹介した「悲運のC11」176号であるが、その形見ともいうべき動輪が道内音更町の大通交通公園に展示されていることを付記しておく。
325「ファンの方々もまさかそこで出会った何の変哲もない1両のC11が現代の動態保存のパイオニアとして活躍するなんて夢にも思わなかったでしょうね。
227さんの最後の職場に近い釧網本線にも171さんや207さんが帰ってきたのですから・・・。」
1「いまさらながら227さんの働きとそれを支えてくださる大鐵スタッフの皆さんのお力に感謝したいものです。」
227「私も還暦を過ぎましたがまだまだ働けます。
幸い190さんという強力なメンバーも加わりましたので。これからは余裕を持って頑張りたいと思います。」
※C11227大井川への道のり
昭和50年(1975)11月16日
釧路00:30―2460レ→五稜郭(操)22:10
*岩見沢からはD51953牽引
11/17
五稜郭(操)17:20―青函連絡船274便→青森(操)21:15
11/19
青森(操)02:30―2160レ→長町12:26
11/20
長町13:57―2160レ→11/21大宮13:35
大宮20:39―2580レ→鶴見(操)21:54
鶴見(操)22:16―2385レ→11/22東静岡01:23
東静岡04:40―1681レ→金谷07:20

                     
                    1994年3月26日大井川鉄道抜里〜家山 撮影TADA
北陸のC11
325「富山・石川・福井といった北陸地区でC11が働いていた、というところはどこでしょうか?」

217(S16日車 44―9七尾廃車 富山県高岡市古城公園公民館保存)
                     
             2001年7月「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供
 
「やはり皆さんと同じローカル線や周辺駅などでの入換えでしょうね。
いえもちろん幹線の無煙化も進んだ晩年のことですが・・・。
私の職場だった城端線や先日C56さんが走って久々に話題となった氷見線などは高岡区が、富山区の仲間は高山線の区間列車などを牽いていました。
猪谷までのものでしたが、神岡線へは行った記憶はありません。
あと忘れてはならないのが能登の七尾区のカマですね。
一応私の最後の職場でもありましたし・・・。」
227「現在、北海道に保存されている65さんの国鉄での最後の配属先が高岡だったようですね。
現状北陸三県でC11が保存されているのは富山(高岡)の217さんだけが孤軍奮闘、といった感じです。」
325「七尾区のC11というと『ふるさと列車 おくのと号』のことですね。
確か三つ下の弟328が専用牽引機をしていた時もあったようですが・・・。」
217「ほう、そんな列車があったのですか!
私が引退したあとのことのようですのでまったく記憶にありません。
七尾にはもうずいぶん昔に在籍したことがある懐かしい土地ですし、住み慣れた高岡も同じ金沢局管内だったので縁はあったのですが、高岡の無煙化が若干早かったので私の出番はなかったのでしょう。氷見線や富山湾を越えた能登半島は近いとはいえさすがに煙を望むのは無理でした(笑)。」
325「あの『ふるさと列車 おくのと号』が走り始めたのはちょうどディスカバージャパンの第一次キャンペーンがスタートしつつある頃で、今で言えばまさにイベント列車ですね。
45年10月3日がスタートでしたからまさに大阪万博後の集客企画だったわけです。
我がC11関連でいえば、この列車の初代牽引機が稲沢一区から転属してきた272さん、二代目が九州・行橋からの300さん、そして最後が広島育ちの328さんということです。」

※ふるさと列車・おくのと号 金沢〜津幡〜七尾〜穴水〜珠洲
昭和45年(1970)10月3日運転開始
 当初の区間は能登線の穴水〜珠洲 
 初代牽引機はC11272(元 稲沢1区)       46-3-8廃車?
 二代目牽引機はC11300(元 行橋区)45-9-21転入 46-7-6七尾×
 三代目牽引機はC11328(元 広島区)46-3-29転入 49-8-8七尾×
昭和46年(1971)4月29日より金沢まで運転を延長(金沢〜七尾〜穴水は臨時急行扱い)、金沢〜七尾はC58140(七)が牽引し、七尾以遠をC11が担当、従って七尾〜穴水は「C11の急行」となった。
 最終運行は昭和48年(1973)9月30日、金沢〜穴水は通常の4両に2両増結して6両で運転。
金沢〜七尾C58140+C56159、七尾〜穴水C56124+逆C11328、穴水〜珠洲C11328
                    
                1972年5月 珠洲 「思いで鉄道探検団」一次休車様ご提供

325「ところで217さん、御自身のことは?」
217「ああそうでした。私が廃車となったのは昭和44年(1969)の9月4日なので、11月6日に金鉄局から保存地の古城公園に輿入れいたしました。
もう34年たつんですねえ・・。」
(近畿地区テーブルにいた218が顔を出す)
218「兄さん久しぶりです! よくまあお元気で・・・(涙)。ええ、元気ですよ。
今日は大阪から来ました。実は北海道が長かったので今日はあちらの方に顔を出したり、この後の近畿地区の方でも話したりとけっこう忙しいです(笑)。
そうですか、北陸にいたんですね。何はともあれ再会できて嬉しいです!」
325「北陸の保存機は少ないのでぜひお体を大切にお過ごし下さい。
では南に戻り、愛知県・岐阜県からの保存機の方々にお話をお伺いいたしましょう。」

武豊・大垣の仲間たち
227「続いては愛知・岐阜県で最後まで残ったC11運用線で活躍された皆さんですね。
保存地の順ですと296さんですが、武豊線がらみということでまず半田の265さんからお願いいたします。」
265(S19日車 45―10稲沢一廃車 愛知県半田市市民ホール保存)
                        
                       2002年12月26日「五条川鉄道写真館」吉野富雄様ご提供

「愛知県半田市からまいりました265です。最後の職場は武豊線でした。
東海道本線の建設のために敷設され歴史も由緒もある線ですが、いつしか本線とは格差がつきまして、名古屋直通や列車番号などに面影を残したものの、非電化のまま名古屋近郊のローカル線になってしまいました。
ただDCの進出により無煙化は比較的早く、貨物で残っていた我々稲沢1区のC11が引退したのは万博たけなわの昭和45年(1970)6月のことでした。」
227「お別れ行事などはあったのですか?」
265「はい、6月30日の最終貨物列車を私が牽引して送っていただきました。
なお最後のメンバーは4両(211・265・272・377)で、私は幸い地元での保存が決まり、211さんは福知山、377さんは大垣へとまた職場を与えられて去っていきました。
先程お話しに出ましたが272さんも金沢局の方で10月から運行する「ふるさと列車」の牽引機に決まり、七尾区へ旅立ったのでした。」
325「保存の現状等はいかがでしょう?」 
265「はい、私は名鉄局の貸与第4号として廃車の翌年(昭和46年)の3月に保存となりました。
当初から屋根付きで状態はまあまあだったのですが、やはり年月がたつと体は痛みます。
まあ荒廃というほどではありませんし、たまに整備もしていただいておりますので・・・。
ただナンバープレートが一部ないのがいずこも同じで困ったものです。」
※現在265号機には4面ともプレートはついていない。
227「265さんには我々のために部品を提供いただいており、陰ながらの御協力に感謝しています。
では続いて296さんお願いします。」

296(S20日車 48―2大垣廃車 愛知県幡豆郡愛知こどもの国保存)
                      
                              2006年4月 撮影TADA

「こんにちは、三河湾を望む愛知こどもの国からまいりました296です。
新橋の292兄さんとは四つ違いの弟になります。
経歴としては60年代までずっと北陸路で働いておりました。
高岡などにおりましたので217さんとは会っていたような気がしますが・・・?」
217「う〜んよく憶えていないなあ、すれ違いだったかもしれません。」
296「お互い昔のことで記憶も曖昧なようですね(笑)。
私はその後大垣に移り、樽見線の最後まで働きました。155さんなどとも久々の再会です。
廃車後はお隣愛知県に作られた観光施設『愛知子供の国』へと引き取られましたが、この施設は昭和49年(1974)10月29日のオープンで、展示物の私以外に本物の蒸気機関車を運転する施設が作られ当時も話題になりました。
2両の小型のB形タンク機ですがその当時この2両の機関車は『日本最後で最新の蒸気機関車』とも呼ばれていました。
私はといえばそんな後輩の姿を横目にのんびりと過しております。」
                
              1971年7月21日樽見線東大垣 575レ 撮影TADA
227「49年といえばまだ国鉄の蒸機も最後の活躍をしていた頃、ブームの中で生まれた新製機関車ともいえますね。でもそれももう30年近く動いているのですから立派な施設といえますね。
私たちの先輩にもなるわけです。
では大垣の155さんどうぞ。」

155(S15汽車 47―12大垣廃車 岐阜県大垣市機関車展示館保存)
                    
               2003年7月「五条川鉄道写真館」吉野富雄様ご提供 

「半田から武豊線で大府へ、そしてJR東海さんの快速で名古屋・一宮・岐阜と走ればもう大垣、私のいるところです。
簡単な経歴ですが、多治見〜名古屋〜大垣とほとんどこの近辺で働いていました。
大垣にきたのが1961年ですから最後は約10年樽見で過したわけです。」

325「樽見線ではファンの方々はどんなところでカメラをかまえていましたか?」
296「やはり大垣近くの揖斐川橋梁ですかねえ?」
227「最後のメンバーというと?」
155「樽見線のDL化は47年3月25日で、月末の31日時点での在籍車は私(155)と296さん、355さん377さんの4両でした。
本線の無煙化はこの時でしたが、大垣構内と電車区の入換の仕事が若干残りましたので、私たちの寿命を少しですがのび、4月15日まで煙は残りました。
またブームの最中でしたので『さよなら運転』の企画も立てて頂き、4月16日に355さんとともに客車2両とタンク車を連結した混合列車を大垣〜美濃本巣で牽引し、花道を飾らせていただいたのも良い思い出です。」
325「なるほど。専用貨物があってこその樽見のC11の存在にふさわしい混合列車だったのですね。
その後のローカル線となった樽見線がいまも鉄道として存続しているのも貨物のおかげ・・・、でも沿線の観光施設も増えたことだし、薄墨桜や温泉と合わせた観光列車にC11再登場!なんて夢も描いてみたいものですね。」

※樽見線のさよなら列車
昭和47年4月16日、大垣〜美濃本巣を1往復。C11155+C11355に客車
2両(名マイのスハ402115とオハフ332551)とタンク車数両を連結。
混579レ 大垣1328→美濃本巣1353
混580レ 美濃本巣1442→大垣1506
客車には沿線の小学生や行事関係者が乗車し、一般客は乗車できなかった。
また同線に客扱いの客車が入線したのも初めてであった。
樽見鉄道〜昭和59年(1984)10月5日、第三セクター鉄道として発足

227「155さんの保存までのいきさつと現状なども最後にお聞きしておきましょう。」
155「はい、私は役目を終えて廃車となり、昭和47年9月6日、名古屋局より貸与され市内中部公園に搬入されました。
今はガラス張りの室内で整備されていまして過分な扱いと感謝しております。
皆さんの教材として少しでもお役に立てればと思っております。
無論チャンスがあればいつの日か樽見線を走ってみたい!という想いもありますが、ま、これは『楽しい夢』として考えておきましょう。」

227「以上がこの地区に保存されている方々ということになりますが、我々のいま働いている大井川を別にすれば、ブームの頃ファンに馴染みがあったのは樽見線ぐらいのようで、現役時のお話となるとやはりちょっとさびしい感じがしますね。」

325「御参考までに中部地区のC11関連線区無煙化日と使用C11配置区を御紹介しておきましょう。
43年に無煙化された越美南線(現・長良川鉄道)を走っていた美濃太田区の最後のメンバーは153・211・220さんでした。
以下列記しておきます。武豊45―6―30(稲一)、太多44―3(美濃太田)、高山本44―10(富山)、
神岡45―9(富山)、越美南44―1(美濃太田)、富山港45―9(富山)、氷見44―3(高岡)、城端45―9(高岡)、名松40―11・・・。」

第三部 終わり
                
                 1962年5月茅ヶ崎 相模線時代のC11325
                  「モノクロームの残影」(休止中)忠賢八高様ご提供

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