煙の座談会
C11 70年の生涯を語る

〜保存機たちの四方山話〜
第4部 西日本・四国地区編

「鉄・街・道」831列車様作
 
撮影者は特記ないものは作者によるものです。

 
                         
                           梅小路区に憩う64号 昭和51年頃

312「西日本・四国地区は三重県にしばらくおりました私312と引き続き大井川の227の両名がナビゲートいたします。
とはいってもどちらも北の方での暮しが長かったので現役時のことなどはほとんどわかりません。
細かい事情なども甚だ不案内ですので、もっぱら聞き役になってしまうかもしれませんが、ひとつよろしくお願いいたします。
なおこの会での西日本地区は便宜上滋賀県・三重県以西の地域とさせていただきます。」
227「ではまず当部会に御参加の方々の確認を・・・。
近畿以西の保存車の方は、40・64・66・75・80・96・117※・180・189・195・200・218・240※・311・312・324※・331といった方々が中心ですね。
(※印は保存後解体)」
312「このうち四国の方は鳴門の66さんと香川の195さんのお二方だけですか、あれ?台帳には中村の117さんが載っているのですけれど・・・?」
195「ああ117さんは高知の中村駅隣接のSLホテルのメンバーとして保存されたのですが、施設の廃止時に老朽化が激しく、残念ながら解体されてしまったのですよ。」
227「そうでしたか、それは残念です。」
195「それで私、主催者にお願いして117さんの保存で御健在の頃の姿を写したものをお借りしてきましたのでここで御紹介しておきます。
ちょっとくたびれた御様子のようで残念なのですが・・・。」
                           
                    中村駅隣接の「SLホテル」の先頭にいた117号(昭和51年夏)

312「(写真をながめて)そうですねえ、117さんも小牛田では人気も高かったベテランだったのにやはり“SLホテルの構造物の一部”というかたちの保存では、ホテルが廃業した後での対応に苦慮するケースが多々あるようで117さんは不運でした。
195さんどうもありがとうございました。さてそれでは資料に基づいてブームの頃(昭和45年前後)の近畿・中国・四国地区のC11活躍状況などを簡単に御説明しょう。
まず近畿地区(大阪・天王寺・福知山管内)では本線運用があったのは片町線(奈良区)、播但線(姫路一区)、高砂線(加古川区)、福知山線ぐらいで、後は機関区やヤード・小駅の入換などに若干の配置があるのみでした。なお和歌山の324さんなどは繁忙期の助っ人として和歌山線などで補機の仕事があったと聞いております。
中国地区(岡山・米子・広島局管内)では米子区にまだかなりの配置があり、境線・倉吉線・大社線などで活躍していました。
木次区のものは木次線北部の運用をC56さんと一緒に受け持っていました。
岡山管内では津山区に9両の配置があり津山線などで頑張っていました。
なお吉備線の仲間は若干早くに引退しております。
広島地区では可部線に運用があり、最後は広島区の三兄弟のナンバー機が勤めていました。
その他ブーム以前にC11が働いていた線については割愛させていただきます。」

※信楽線(亀山区)・因美線(鳥取区)・入換用(竜華・新宮・吹田区)・宇品線・呉線(広島二区)などが45年以前ではC11が走っていた。

227「なお四国地区につきましては当局の取り組みもあって無煙化のスピードが早く、我がC11一族に関しても昭和45年(1970)の3月で引退となっております。
ファンの馴染みも少ないのですが、鳴門線や牟岐線などの支線で最後まで頑張っていたと聞いております。」

※ブームの頃の仲間たち(45―6現在の近畿・中国地区C11配置 ★印は保存機 ☆はナンバープレートの保存が確認されているもの)
梅小路★96、吹田一363、加古川199、姫路一177・178・179・☆222・252・278・★292・★311・★331・345・360、和歌山★324、奈良☆126・175・☆279・344、福知山23・★40・174、米子11・31・41・☆73・★75・☆238・261・342・364、木次☆9・☆12・101、津山☆55・77・79・★80・86・215・☆251・☆271・315、広島328・329・330

312「それでは若い番号の方から自己紹介を兼ねて御発言をお願いいたします。
トップバッターは福知山の40さんですね。」

40(S8川崎 46―11福知山廃車 兵庫県篠山市丹南町公民館保存 2007年福知山駅前に移転)
                   
             1997年8月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供


「丹波篠山からまいりました40です。
1号さんを除くといつのまにか私が最若番の保存機になってしまったようです。
さて履歴でありますが、もとより近畿地区でずっと働いておりました。
戦前〜戦後を通じて勝浦や新宮といった紀州の地におり、その後福知山へと移りました。
晩年は主たる使用線区もなくなり、もっぱら福知山の入換えや、たまに補機などのお手伝いをして過しました。
近くの米子には弟の41がいたのですが、彼は倉吉や境でエースとして頑張っていたようで、49年の倉吉線の無煙化時にはデフに大きなツバメマークをペイントされさよなら列車を牽引したそうです。
彼は最後は南国・志布志まで行ったそうですが保存はされなかったようで残念です。
私の方はとりたてて特徴はありませんが、なぜかデフステーが湾曲して付けられています。
これは1号さんも同じみたいですし、中国地区の仲間にはしばしば見られたようでした。」
                   
                ちょっとピンぼけですが46年頃の福知山区での私です(40号)

312「(40のデフステーを見て)なるほどステーが弧を描いていますね。
なかなか優美なデザインじゃありませんか。
記録写真で見ると津山におられた77さんなども同じものをお持ちのようですね。
なにか取付けとか改造とかの理由や時期について御存知の方はいらっしゃいませんか?」
40「なんでも『つらら切り』の効果を狙ったものだとか聞いた事もありますがよく覚えておりません・・・。
ただ1号さんも現役最後は同じ福知山におられましたので担当工場独自の加工ではあると思います。」

※C1141〜S8川崎 49―5―31米子→志布志、50―2―17志布志区で廃車後、長崎県東彼杵郡波佐見町に保存が予定されていたが中止。
なお動輪のみが鹿児島県姶良郡加治木町の公園に保存されている。

312「ありがとうございました。では梅小路の64さん、どうぞ。」
64(S10川崎 61―5梅小路廃車 梅小路蒸気機関車館保存)
「会津での会話も楽しかったですが、今度はいま私がいる梅小路機関区、おっと蒸気機関車館でのことについてお話ししましょう。
私の経歴などに関しては重複しますので会津(東北)での議事録など御参照下さい。
さて私が梅小路に来たのはもちろん動態保存のためですが、オープン二ヶ月ほど前の47年8月のことでした。
B20くんを除くと唯一のタンク機でしたので、大きなテンダ機の皆さんに囲まれて驚いたものでした。
開館当時はまだ関西地区も煙が多く、また保存機の面々も初期の計画通り周辺の路線へ『営業運転』を行い賑やかだったものです。
C622さんC612さんD511さんなどは大忙しでしたが、これで日本の動態保存も軌道に乗った感があり、前途はまずまずでした。」
227「そのようですね、単なる記念館内での保存と構内運転だけではなく、ここを基地として周辺線区で計画的・定期的に蒸機列車も運転する、というのが当初からの梅小路の運営方針だったと聞きました。」
64「ただそれも数年しかつづかず、私も51年(1976)3月16日の「山陰本線高架完成祝賀列車」(京都〜二条)を臨時で運転してからは構外へ出る事なくこの一回きり〜これも正規の保存運転コースではありませんでした〜で、その後はまったく出番はなくなってしまいました。
同じようにC622さんの「SL白鷺号」やD511さんの「デゴイチ伊賀号」なども次第に運転されなくなってしまいました。」
227「あの運転は短区間で折り返すものでしたのでバック運転に重宝な64さんが狩り出されたと記憶しておりますが、51年3月でしたか・・、まさに本線・ヤードの営業の火が消えてまもなくのことだったのですね。
当時の人気たるや小運転でも凄いものでした。
大井川で運転開始準備をしていた私もSLはまだまだやれる、との気合が入ったものです。」
64「結局、安全面や経費の問題などで梅小路では構内だけの動態&静態保存の時代になってしまったのですが、C571さんC581さんの山口への出張、C56160さんの北海道出張(いずれも国鉄時代)などが始まり少しずつ保存機関車の全国をフィールドとした活躍が始まり、車籍を落とす仲間も出て来る反面、息のあるカマは積極的に外へ出て行くかたちが作られるようになったのは幸いです。
ただその間に国鉄の民営化があったため、全国の動態保存基地としての梅小路という位置付けが変わってしまったため、いま各地で動態復原機として一番活躍しているC11一族の動態筆頭といわれる私だけが動きがとれなくなってしまったのは少し残念ですが・・・。」
312「64さんもせっかくのいい状態が生かせず無念でしょうねえ。
ただ30年たって企業体も変わり、ようやく梅小路蒸気機関車館の目指した『動態保存運転』のあるべき姿がいま全国各地で花開きつつあるのですね。
まだまだいろいろな問題はありますが私もその仲間のひとりとして頑張っていきたいものです。
また梅小路におられる皆さんにおいても現状からまた発展した姿を見たいものです。
ぜひ管理者のJR西日本様の御理解と御尽力、またファンの皆さんの応援をお願いしたいものですね。
ひとつ臥薪嘗胆、チャンスを待ちましょう。64さんありがとうございました。
では自己紹介は続いて徳島は鳴門からお越しの66さんになりますね。」

66(S10川崎 45―3小松島廃車 徳島県鳴門市撫養地公園保存)
                    
            2005年3月19日  「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「どうも、四国とはいっても明石・鳴門の橋で関西と直結したため非常に近畿地区とは身近な感じになった徳島から来ました。
私は元来四国のカマでして、昭和16年には松山におりました。
その後本州へ渡り、山形など東北を移動しました。
最後は四国の蒸機が最後に集まった小松島区で、鳴門線や牟岐線などで貨物を牽いておりました。
その縁で今はこの鳴門におります。」
227「ありがとうございました。
66さんは近接した御兄弟の多くが健在(63・64・65など)のようで強運の番号のようですね。
さて次は倉吉の75さんになります。」

※ちなみに「66」という番号は保存蒸機の中でも「44」などとともに残存率の高い番号のようで、C11以外にもC12・C57・C58・D51の66号機はいずれも保存されている。

75(S10川崎 47―9米子廃車 旧倉吉線打吹駅横〜現・倉吉線鉄道記念館保存)
「山陰は倉吉から来ました75です。
しばらく動かないうちに周辺はすっかり変わってしまいました。
目の前の倉吉線も廃止されてずいぶんたちます・・・(昭和60年〜1985―4―1廃線)。
まず私の自己紹介ですが、ほとんど西日本で過したカマで戦前は姫路などにおりましたが、戦後すぐに米子に移ると47年の廃車までここを動きませんでした。
境・倉吉・大社などの周辺は皆働き場所でした。
廃車後は沿線の打吹駅横に保存され、後輩たちの活躍を見守っておりました。
ここの無煙化は49年のことでしたのでちょっと早い引退でした。
まだ元気な仲間たちを横目に余生を過すのは申し訳ないような気がしたものです。」
                   
                   打吹駅ホームが見える場所に保存された75号(49年12月)

312「廃車から31年、無煙化から29年、廃線から18年・・・いずれも長い年月ですね。
公共施設での保存ということですのでぜひ今後の維持管理を密にして長生きしていただきたいものです。
続いては倉吉からですと山を越えた津山にいらっしゃる80号さんですね。」

80(S10日立 50―1会津廃車 津山市昭和町 市立南小学校保存)
                     
              2002年5月5日 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「会津部会から戻ってきました80です。
自己紹介などはあちらで済ませましたので割愛させていただきます。
私は元来中国筋のC11ですので長く在籍した津山に保存されたのはとても嬉しいことでした。」
227「何と言っても80号さんの思い出はお召し列車と無煙化時のさよなら列車の牽引だそうですね。」
80「はい、そのお召し列車ですが、本務を務めさせていただいたのは38年10月の岡山国体の時でした。
その時は同僚の86号くんも牽引の栄誉に浴しております。
私はその実績が買われてか、4年後の岡山植樹祭の時も同僚の251・43号さんのバックアップとして救援列車を牽引いたしました。」
227「記録写真を拝見すると本務の251さんのデフには『飛翔する鳳凰』、補機の43さんには『梅の花と枝』の美しい装飾が施してありますね。
C11のお召し機の中では一番美しい整備ではないでしょうか?」

※C1186〜S11日立 津山区の後は46―3に熊本へ移動し、同じお召し牽引仲間の190などとも顔を合わせている。最後は志布志区。

312「なかなかの経歴の持ち主という80号さんでした。番号順での次は96さんですね。」
96(S11川崎 47―9梅小路廃車 和歌山県新宮市あけぼの団地公園保存)
                     
              2000年12月「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「紀州の南端・新宮から来ました96です。
天王寺経由か亀山経由か迷いましたが、往年の働き場所、紀伊長島あたりの風景をながめてみたくなって東回りにしました。
天王寺さんへはスーパーなんやらとかオーシャンなんとかといった派手な特急電車が幅を利かせており、それはそれで紀州路の鉄道が発展していて嬉しいことなのですが、やはりわたしら蒸機にとっては昔ながらの空が広い、え〜つまり架線の張っていない線路の上を走るのが一番ですわ。
亀山までの紀勢本線は近代化が遅れているゆうても「ワイドビュー南紀」なども走っておるし、かつてはDL化の尖兵だった時期もあるんですからねえ、まあかえって今の状態の方が旅をするにはくつろげますよ。
おっと道中の話が長くなってすんまへん。
私は近畿育ちでそれもこの紀州・新宮で過ごしたことがあっていまは故郷でのんびり過ごしております。」
227「ほう紀州のC11さんというのは貴重な存在なのですね。」
96「私は昭和11年に同僚の97・98とともに紀伊勝浦へ新製配置されました。
その時はまだ紀勢線が全通しておらず、紀勢中線という分断された区間しかも私鉄の新宮鉄道の買収区間で使用するということで、リンクカプラーを付けて投入された記憶があります。
またのちの紀伊長島の仲間はいろいろと特殊な装備をしていたということで、ブームの頃までそれが残っていれば結構話題になったかもしれませんね。」
227「なるほど、そういえば独特の集煙装置やバッファーリンクなどを装備したC11というのをどこかで聞いたことがあります。やはり特殊な事情ゆえの装備だったのでしょうね。」

※この集煙装置は鷹取工場の試作に近いもので、後年の郡山工場製よりさらに簡易な構造であった。
装備した姿は『世界の鉄道62』(朝日新聞社刊)に多気駅で撮影されたC1116号の掲載写真がある。

96「それとですね、私は梅小路時代に信楽線の貨物を担当するため貴生川(草津線の駐泊所)にいたことがあるんです。昭和20〜30年代だったでしょうか。
後年この線は亀山のC58さんの職場となりましたが・・・。
その貴生川には常時2両がおりましたが、そのパートナーが先程40号さんの御発言の中に出て来た41号さんで
した。
昔のことですのでよう憶えてはおりませんが、いずれにしても晩年まで御活躍されたC11の1両として記憶に留めておきたい仲間ですね。」
312「(96の体を見回しながら)96さんはなかなかのスタイリストとお見受けしますが、何か形態上の特徴などはあるのですか?」
96「う〜んそうでしょうか?まあ私の誇りとするところは晩年まで形式入りプレートを正面に残していたことでしょうか。
梅小路でもC57さんだけでなくけっこう多くの方が撮影してくれました。
そのおかげかどうか、『C11の代表的なもの』としても紹介していただき、あの鉄道ファン臨時増刊の『現有形式』を紹介するコーナーにも2年続けて登場しました。」
227「あ、それ憶えています。巻末の形式を説明するコーナーでしたよね。
あの96さんの姿は堂々としていました。」
96「そんな梅小路での最後の思い出といえば、やはり46年11月、鉄道100年を記念して制作された国鉄の映画に出演したことです。
有名な冒頭の梅小路での機関車揃い踏みのシーンなのですが、動態保存候補でもない私が出演したのは、この時は梅小路の保存とはあまり関係ないものでして、確かに保存候補機を中心に集められていたようですが、制作者としてはできるだけ当時の現存形式を集める、という意図があったようで、私以外にも保存候補形式以外の方もいらっしゃいましたよ。
幸いC11でプレートも旧型のを付けたのが梅小路にいたのでかつぎだされた、と言うのが本当のところでしょうが(笑)。」

227「一枚のプレートが個性となるのも蒸気機関車の面白いところなのですね、ありがとうございました。
さて96さんの次は四国中村の117さんですが、冒頭でもお話しした通り残念ながら保存後解体されてしまったため出席はかないませんでした。
もともとは東北で御活躍された方でしたので、思い出話しなどは「東北編」で語られておりますのでこちらでは割愛させていただきます。
ということで次は宇治市の180さんになりますね。」

180(S15川崎 48―3長万部廃車 京都府宇治市山城総合運動公園保存)
                     
               2002年5月「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「お茶の宇治からまいりました180です。
保存は近畿地区ですが、古くは能登の七尾にいたものの、生涯のほとんどは北海道で過しました。
戦後は木古内〜長万部と移動し、SLブームの頃はもっぱら瀬棚線などで働いておりました。
長万部ではあのC62さんともよく顔をあわせていました。
役目を終えたのは比較的早く48年でしたが車籍は残り、結局釧路へ体は移されて50年6月まで生き延びたのです。」
227「そういえば180さんも釧路時代に御見かけしたような記憶がありますが、それはまたどういった理由だったのでしょうかねえ?」
180「はい、詳しくは北海道編でも話題となりましたが、晩年の釧路関連のC11には保存にまつわるいろいろなエピソードがあるようです。
私個人のことでいえば重複しますが、私は48年3月17日付で長万部区で廃車となり、道内の大沼町での保
存が内定したため解体されずにおりました。
その後6年あまり道内で保管(54―9頃まで)されていたのですが、結局この保存は中止となってしまいました。
ところが何故か私は京都の梅小路機関区に送られ、多くの動態保存機に混じってしばらく解体待ちのような姿を晒しておりましたが、最終的には京都府宇治市に再保存が決定したのです。」
312「現在の状態はいかがでしょう?」
180「まあ外観は整備され、屋根付きですのでいい方だと思います。
同じ京都市内に仲間がいるのも心強いし、現状には満足しております。」
227「180さんありがとうございました。
次はずっと西にとんで広島の189さんになりますね。」

189(S15川崎 50―2志布志廃車 広島県JR可部線三段峡駅横保存 2003年可部線廃止に伴い府中町に移転)
「広島の奥から来ました189です。
可部線の終着駅・三段峡駅の横に保存されております。
昭和15年川崎製ですので180さんとは同年齢ということになりますね。
ただ私はもっぱら九州で働き一生を終えましたので、おそらく現役時にはまったくお会いしていなかったと思います。したがって保存地にはあまり縁はないのですが、可部線もC11が活躍した路線と聞いておりましたので皆さんには懐かしい気持ちで接していただいております。」
312「可部線では晩年に328〜330さんの三兄弟が働いていたそうですね。
189さんはその代わりということなのでしょうか。
駅前保存ということでまあまあ人目にも目立つようですが、御機の状態もさることながら目の前の可部線の存続も気になるところです。」
                      
                    可部線三段峡駅横の189号 まだきれいな昭和51年頃

189「まあ私がどうこう言える立場ではありませんが、生きている線路の近くに設置されていることで自らの存在価値と可部線で働いたC11の証しがあるようにも思えますので、できることなら地元の方々の足として存続してほしいものだと思います。」
227「ところで189さん、ひとつ上のお兄さん188さんを御存知ですか?」
189「は?兄ですか。ええ生れも二日違いで新製配置も一緒に吉塚でした。
ただ私は終始九州内に留まったのですが、兄はまもなく北海道に渡ってしまいました。
風の便りでは長万部などで働いていたと聞いておりますが、その後の消息はわからないのです・・・。」
227「履歴簿によれば188さんは48年3月に長万部区で廃車となっており、もちろん解体され現存されていないのですが、何と忘れ形見である動輪が大阪の共栄興業さんのところで大切に保存されているのです。」
189「えぇっ、本当ですか!兄の動輪が・・・。それは良い事を聞きました。
長い事会っていませんでしたので広島に帰る途中でも寄って声、いや汽笛でもかけてきます。」
(この話を聞いて180が体を乗り出す)
180「共栄興業さんに188さんの動輪があるのですか! いやそれは驚きです。
先ほども申しましたとおり私は廃車が188さんと同じ48―3ですし、もちろん木古内〜長万部と188さんとは最後まで一緒に働きました。
京都と大阪、こんな近くにおりながら知りませんでした。
でも45年前後の長万部在籍C11(3両)のたどった道はさまざまだったのですねえ。
188さんは動輪としてかたちを残し、私は流転のうえ何とか宇治市に保存、そしてもう1両の仲間だったのがさきほどもお見かけしたあの動態保存機の171さんだったのですから・・・。」
312「いやこれもまた奇遇なことでしたね。
動輪・静態・動態とかたちは異なっているものの、何らかの姿で同じカマ(庫)の飯(石炭&水)を食ったものが現代も残っているというのも素晴らしいことです。」
227「付け加えますが共栄さんはC57148さんなどの機関車本体や多くの蒸気機関車のプレートや動輪などを民間で保存展示されているたいへんありがたい会社さんなのですが、188さんの動輪の他に我々C11のナンバープレートも多数お世話になっているようです。
開会時に申し上げた『ブームの頃の仲間たち』で登場した当時のこの地区の在籍C11だけでも9・12・55・73・126・222・251・238・271・279の10両の方のものが確認されています。
もちろん全国の施設や個人でも旧知の方のプレートをお持ちでしょうが、さすが関西とあってこの地区に関係された方のものが共栄さんには多いようです。」
312「なるほど、プレート・動輪などとなって後世にC11の名を残されている仲間も大勢いるわけですね。
貴重な話題と資料ということでした。189さんもありがとうございました。
可部線も残念ながら部分廃止が決定したそうで、今後の成りゆきに注意したいと思います。
そういえば倉吉の75さんもかつての営業線沿いにおられたのが廃線となってしまい嘆いておられましたね。
難しい問題です・・・。
さて気を取り直して次の方にまいりましょう。66さんに続いての四国の保存機195さんですね。」
※C11188の保存動輪は「全国保存動輪リスト」を、共栄興業の保存プレートはTADA主宰「汽車・電車1971〜」の「大阪共栄興業展示プレートリスト」も合わせて御覧下さい。

195(S15川崎 50―2志布志廃車 香川県東かがわ市白鳥町福栄小学校保存)
                       
               2005年3月19日 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「あらためてこんにちは。
私も189さんや200さんと一緒で馴染みは九州なので、現役時の思い出等はまたあちらの会でお話することになるでしょう。
生まれてすぐ鳥栖区に配置され、生涯のほとんどを九州内で過したため今保存されている香川県とはまったく縁はないのです。
とはいえかつてこの地でも活躍したC11という機関車を知ってもらうために幸運にも選ばれて運ばれて来た事と、長年の保存管理をしていただいている地元の方々にはたいへん感謝しております。」
312「お見かけしたところ状態も良いようですね。」
195「はい、幸いにも屋根付きですので雨風はしのげますし、ミニプラットホームもあってなかなか環境は整っております。」
312「四国での暮しもまあまあということですね。
さて195さんの経歴など聞いておりますとこちらの200さんも同じ九州馴染みのC11ということになりますでしょうか?」

200(S15川崎 49―11志布志廃車 兵庫県龍野市中川原公園保存)
「赤とんぼと播州手延べそうめん、そして薄口醤油で有名な龍野市からまいりました200です。
この土地の沿線(姫新線)もかつてC11が活躍していたという御縁で保存されたと聞いております。
C11のジャストナンバー機では残ったのは私だけでしょうか?
皆さんおっしゃる通り私も九州一筋のC11でした。晩年を共に過した189さん195さんとは感動の再会です!
また40号さんが触れていたデカツバメの41号さんなども懐かしいお名前を聞きました。
やはり思い出話しは九州時代のことばかりなのでこの部会では避けましょう。」
 
312「九州関連の方が続きましたね。番号が近いので新製時の配置も似ていたことがあったのでしょうか。
200さんの次は大阪の218さんですが、今度は一転して北海道で働いていた方ということになります。」

218(S16日車 50―3釧路廃車 大阪府堺市民芸料理店「はや」保存)
「え〜そういうわけで私は北海道育ちですのでこの地区については多くを語る事はできません。
ただ新製配置は広島でしたのであながち縁がない、ということではありませんが・・・。
まあ今日は久々に兄貴の217(富山県保存)に会えて嬉しかったです。
現状は堺市の料理店のマスコットとなっておりますが、鉄道とは関係ない場所にありがちなぞんざい保存と違い状態はまあまあですのでオーナーには感謝しております。
北海道最後のC11の1両であったため、やはり北海道編では少し話題になりました。
詳しくはそちらを御覧下さい。」

※C11218は釧路から鷹取へ回送され関西鉄道機械整備会社で復原後、75―5に鳳操車場に搬入、という記録がある。

312「次の240さんについても赤穂市に保存後解体されたとのことですのでお話を伺う事はできません。
簡単に経歴などを紹介しますが、240さんは昭和18年日車製で、秋田や会津で御活躍されました。
会津では無煙化の49年まで生き残り、50年1月に廃車となって兵庫県赤穂市に保存されたのでした。
なお240さんを含めたお仲間の事は「東北編2」を御覧下さい。」

※ 240(S18日車 50―1会津廃車 兵庫県赤穂市南緑地保存→解体)

80「そうでしたね、会津部会でもお話が出ましたが240さんは惜しい事をしました。」
227「考えてみればこの地区では兵庫県内のC11保存が多いことに気付きます。
篠山市の40さん、西宮の311さん、竜野の200さん、加古川の331さん、そして赤穂の240さんと5両もあったのですからちょっと驚きですね。
D51さんなら人気もあって一県内に多数の保存車があるのもうなずけますが、小型機である我々が集中して兵庫県内に保存されたのは不思議な感じがいたします。」
80「ああそうそう、会津でその240さんとツーショットのものが出て来ましたので御紹介しておきます。元気でいればお渡しできたのですが、もうすぐ会津での役目も終えようとする49年秋の若松の庫でのものです。」
                       
                         会津若松区に憩う80・240(昭和49年9月)

312「80さん、貴重な写真をありがとうございました。ではつづいてまいりましょう。
240さんと同じ兵庫県内からお越しの311さんです、そう私の一つ上の兄さんになりますね。」

311(S20日車 51―3梅小路廃車 兵庫県西宮市甲子園町月見里公園保存)
                       
                2001年12月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「312さん、いやひとつ下の弟機がこんなに活躍しているのはたいへん嬉しいです!
今日は虎フィーバーで盛り上がっている甲子園の近くから来ました。
それでは♪六甲おろしにのって自己紹介を・・・(笑)。
私は昭和20年の日車製で、312さんとは微妙に年度が違います。
終戦の年も押し詰まった12月28日の完成ですので、世情は荒廃していたさなかのことでした。
戦争は終わったけれど当然のように資材を節約した戦時設計の姿で復興に務めました。
戦後しばらくは厚狭におりましたが、36年に姫路に移り、播但線を中心に働き、実際はここが最後の職場となりました。」
                      
                    播但線福崎駅で一休み中の311号(昭和46年8月)

227「おや?311さんの履歴簿を見ると『51―3―31梅小路廃車』となっているのですが・・・?」
311「はい、この謎は後でお話することになるでしょうが、経歴で見る限りでは私の廃車日はあの国鉄最後の蒸機となったC57135さんや79602さんと同じなのですね。
つまり日本最後のC11というわけです。まああくまでも書類上のことですが・・・。」
64「そのへんは梅小路の保存車の車籍消失をどう捉えるかで変わってきますよね。
つまり一般的な営業用としての国鉄蒸気機関車として最後だったということで・・・。」
227「そういうことになるでしょうね、その機関車も籍は梅小路だったというのも面白いものです。
あ、次は312さんの番ですね。」

312(S21日車 50―1会津廃車 三重県松阪市ドライブイン「あら竹」保存→大井川鐵道に譲渡後動態復原)
「ああそうでした、311兄さんありがとうございました。
この部会では司会のお手伝いをしておりますし、出席者としては中部・東海と東北編で発言もさせていただきましたので、改めてここで自己紹介はいたしません。
ただここのメンバーとして登録されたのは、会津で廃車となった私を貰い受けて下さった三重県松阪市で駅弁を販売していたお店の親父さんが大切に可愛がってくださったおかげ、と思っております。」
227「312さんが松阪にいたのはどれぐらいでしたか?」
312「昭和50年から63年までですので約13年といったところでしょうか。
この間は日本の鉄道界にとっても波瀾の時期でして、私が引退した当時はもちろん蒸気機関車の国鉄からの消滅の時であり、以後はその国鉄自体の存続に揺れた時代でした。
地元の名松線も『ローカル線廃止』の対象になり、さまざまな問題が起きました。
そして国鉄の分割民営化となり、松阪の駅もJR東海という会社に変わりました。
その移り変わりを松阪のドライブインの横で見つめていた私が思わぬことで動態復原されたのですから不思議なものです。幸いにも体調がよく、227・190さんはじめ多くの仲間と楽しく過させていただいております。」
227「聞くところによると312さんが保存された松阪と会津には不思議な縁があるということですが・・・?」
312「ええ、縁というほどのことではないかもしれませんが、松阪市は城下町で戦国時代の武将・蒲生氏郷が近江の日野から転じてきて発展の基礎を築いたとされています。
その蒲生氏の次の領地が会津で、当時「黒川」と呼ばれていたところに故郷の松阪の「松」をとって「若松」と改名したほど松阪には愛着があったのです。
その会津若松から松阪へ来た私は古の昔をしのんだ蒲生氏の里帰りだったのかもしれません。
私を預かってくれた駅弁屋さんの親父さんも出身は蒲生氏郷と同じ近江の日野ということで、この近江〜松阪〜会津を結ぶ不思議な関係のなかに私もいるのだなあ、と思ったものです。」
227「いい話ですね、そういえば近江も松阪も会津も美味しい牛肉が名物ですし、会津には「牛」をモデルにした『赤べこ』という郷土玩具もあります。
ですので312さんにとっては松阪は安住の地だったのでしょう。
だから大切にされ、今も大井川で元気に御活躍されているのでしょうね。」
312「本当にそう思います。松阪はC11にとって「約束された地」だったのでしょうね。
そこでお世話になった松阪周辺で実際に働いていたC11のことを主催者の方に調べて頂きました。
蒸機全盛時代の三重県内にはC11の配置があった機関区は、亀山・山田(〜伊勢)・紀伊長島などがありましたが、松阪に関係しているのは亀山と山田区のものということで、昭和40年頃まで名松線や入換などに運用があったようです。
そのメンバーですが、少々昔のことなので詳しくはわかりませんが、昭和40年(1965)に亀山に2両、山田(昭和36〜1961からは伊勢管理所)には昭和30年頃から1〜3両の配置があり、40年には消滅しております。
212・345・346さんの名が配置表には見えますが、このなかで気になる番号といえば345さんでしょう。
彼は山田区の後は亀山を経て姫路に移り、そして最後は何と会津に移動しているのです!
つまり私と会津で一緒に働いていたあの345さんはかつて松阪に来ていたC11だった訳なのです。
昔の話などは現場ではお聞きしたことがなく、345さんの方が先に廃車となってしまったので、後に私が松阪へ保存されることが決まってもこのことはわかりませんでした。」
311「そうかあ、312くんは345くんと一緒に働いた時期があったのですね。
姫路にいた時は忙しくて各機の前歴など気にする暇もなかったのですが、345くんが松阪に縁があったとは知りませんでした。」
227「聞く所によると312さんの前所有者の駅弁屋さんは今でも312さんのことを気にとめてくれているとか・・・?」
312「はいそうなんです!今は私を引き取ってくれた親父さんの息子さんの代になっているのですが、そこのお嬢さんつまりお孫さんがホームページを立ち上げ、駅弁とともに私の事も話題に取り上げてくださっているのです。松阪に来るまでのこと、
搬入作業や大井川に行く時の事等を写真と文で記録して紹介してくれたのには感激しました。
どこへ行っても私のことを忘れないでいてくださる心優しいお弁当屋さんなんです・・・(涙)。」

311「おやおや312くん思わず蒸気が・・・、でも素晴らしい方に引き取られ、そして今も元気で活躍されている312さんが羨ましいですね。
願わくばまた金谷とJRの線路が結ばれ、いろいろな制約も乗り越えて名松線に里帰りする機会が訪れ、312さんが松阪駅で煙をあげる姿が見られるようになることを祈るばかりです。」
312「ありがとうございます。先日もお嬢さんの呼び掛けで多くのファンの方々から寄せられた私の会津時代や大井川での姿をまとめたアルバムもネットで紹介していただきました。
きょうおいでの皆さんもファンの方もぜひ一度御覧になって下さい。
もちろん本来の駅弁も松阪牛を素材にした美味しい駅弁を作り続けておられますし、新作も汽車旅のにおいたっぷりのものが登場しておりますのでお近くにおいでの際は味わってみて下さい。」

227「312さんのいろいろなエピソードは人間にも通じるものがあり、たいへん感動的でもありますね。
では次に梅小路からの324さんにお願いしましょう。残念ながらカットモデルとしての御参加ですね。」

※ 312号のエピソードは『駅弁のあら竹』ホームページ「おじいちゃんの機関車」「C11312WEB写真展」も御覧下さい。

324(S21日車 47―5和歌山廃車 京都府田辺町児童館→JR京田辺駅前→梅小路蒸気機関車館(カットモデル)保存)
「え〜こんな姿で失礼します。先程「東北編」でもお話ししたのですが、私は会津から和歌山といった移動で晩年を過しました。
重複いたしますが保存から現在の姿になるまでの事を話しましょう。
今の私は一応保存車とはいうものの今は梅小路のカットモデルとなってしまい運転室と炭庫の一部しかないんですが、私は64さんや312さんも覚えておいででしょうが、戦後からしばらく会津におりました。
44年に和歌山へ移り、みかん輸送のお手伝いや入換え作業で過し47年5月に廃車となりました。
その際同じ時期に無煙化になった片町線の方でも“C11の保存を”という声があり、私が選ばれたわけです。
当初地元の希望は片町線で長く働いた奈良区の175さんだったのですが、彼はまだ働けるということで小牛田へ転出してしまったのです。
町の展示機関車になるより最後まで蒸機の力をお役に立てたいとの気持ちもあったのでしょう。
残念ながら彼は保存にはなりませんでしたが立派に役目を果たしたといえます。
一方175さんの代わりに選ばれ片町線沿線の田辺町の児童館に置かれた私ですが、しばらくは何ごともなく過しておりました。
平成9年の田辺町から京田辺市への市制変更でも田辺駅前(現・JR京田辺)に場所を確保していただき市のシンボルとしてお役に立てるな、と思ったものでした。
しかし相次ぐ移設や露天展示による老朽もあったのでしょう、理由はいまもって定かではありませんが、結局解体の憂き目には会わずに済んだもののこんなスタイルで梅小路に展示となってしまったのです。」
227「それはたいへんでしたね、保存機関車も年月が立つと維持管理にもいろいろ問題が起きてくるので324さんの例のようなことも発生してくるのでしょう。
まあ一部とはいえちびっ子に機関車の構造を教える教材となって梅小路で頑張っておられるのはせめてもの救いになるでしょうか。」

227「さてこの部会での最後のメンバーとなりました331さん、よろしくお願いします。」
331(S21日車 47―5姫路一廃車 兵庫県加古川市鶴林寺公園保存)
                      
               2001年1月 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」やまてつ様ご提供

「加古川からまいりました331です、よろしく。
戦後間もなくの頃は紀伊の長島にいましたが30年代からはずっと姫路で311さんなどと一緒に働いておりました。
番号の並びが似ているためによく間違われたものです(笑)。
私のいまいるところは加古川市の鶴林寺というのですが、この近くにはかつて国鉄高砂線が走っていました。(昭
和59年12月1日廃止)「鶴林寺」という駅もあったのです。
SL時代にはやはり小型機が運用されていたようです。
加古川といえば周辺の路線でもっぱらC12さんが運用されていて同じ加古川から分かれる高砂線もその仲間のはずでしたが、こちらにはなぜかC11が来ていました。
晩年は1両だけ残った199さんが孤軍奮闘していらっしゃったようですが・・・。」
312「では本来ですと加古川にはその199さんの方が馴染みがあったのでしょうが、なぜ331さんが?」
331「はい、私もそうだと思ったのですが、199さんは47―3の加古川周辺無煙化後も廃車とならず会津へ移られましたので近くの姫路で同時期に廃車となった私が代わりに選ばれたということなのです。」
312「あ!そうでしたね。考えてみれば会津で199さんをお見かけしていたのでした。
晩年の入れ替わりが激しい時期でしたので、各車の細かい転入のいきさつなどお伺いする暇もなかったものですから・・・。これは失礼いたしました。」
331「いえいえ、それで47年5月1日に廃車通告を受けた私はしばらく保管され、秋になった11月10日に当時の大阪鉄道管理局長から加古川市へ“永久貸与”というかたちで引き渡されたというわけです。
199さんは残念ながら解体されてしまいましたので、この姫路・加古川周辺でのC11の活躍した証として私は西宮の311さんともども199さんのぶんまで伝えて行きたいと考えておる次第です。」
312「保存までの経緯とあたたかいお言葉どうもありがとうございました。」

227「さて一通り自己紹介などが終わりましたので、これからはこの地区の各線区での思い出や御活躍の様子、またエピソード等をざっくばらんにお伺いしたいと思います。
最初よく話題となる64号さんの動態保存選定にまつわるお話でスタートしたいと思いますが・・・。」

64号選定理由の謎
64「まずよくいわれている私の動態保存選定の理由ですが、当初からリストに載っておりました。
国鉄が蒸気機関車の本格的保存を検討したのは鉄道90周年(昭和37年〜1962)の前後だと思われるのですが、この時は大阪の鉄道科学館や青梅鉄道公園への静態保存が中心でC11も保存形式に入りましたが、まだ1号さんがおりましたのでこの保存はすんなりとトップナンバーに決まったようでした。
その後の10年でSLブームも起こり100年記念となればまた保存計画が持ち上がるわけで、今度は動態保存という画期的な試みで、いろいろ機種選定にも紆余曲折があったようです。
しかし会津でのんびりと過していた私に白羽の矢が刺さるとは夢にも思いませんでした。」
227「手元の資料によりますと、鉄道100年記念での動態保存機種選定(まだ場所は未定の段階)については以下のような記事(抜粋)がありました。
その「鉄道ピクトリアル」210号(68―6)によれば・・・国鉄本社機関車課長・山田秀三氏の話しとして、1967―7頃に常務より提案があり、“大正以降の国産SL25形式中の代表12形式、各1両とし、極力若番号とする”という趣旨で、当初案よりC1164は候補でした。
トップ・ラスト・現存最若・現存唯一などの理由以外での選定はこの時は他にC51239・9633のみ、(8630・C51239・C5345・C56160・C571・C581・C591・C621・9633・D511・D521・C1164の12形式12両)C1164の理由として「動態保存容易な若番号のもの」とありますが、筆者の意見として『・・・C1164号のみが些か具合が悪いが、若番号中の状態のよい機関車を採ったものである・・』というくだりもあります。」
312「ということは64さん以外の当時の若番号機はみな調子が悪かったのでしょうか?」
64「そうともいえないでしょう。私が選定された当時、まだ全国にはかなりの数の若番機が健在でした。
そうひとつ上の兄63もその中の1両ですし、今日お越しの40号さん、小出の46さん、熊本の48・61・62さんなどもいました。まあその中で私が一番状態が良かったということなのでしょうね。」
312「C11の場合、1〜23の一次型は運転に不都合があったため選定にもれたということもありそうですね。
保存要請があった初期の67年頃にはかなりの一次型のナンバーは残っていましたし、ブームの46年時点でもシングルナンバーの9(46―3―8木次廃車)、11(46―6―9米子廃車)、12(46―4―17木次廃車)とおり、なにより晩年まで現役だった只見・会津でお馴染みの19号さんもいたのですから・・・。」
227「ひょっとすると開館後に予定されていた周辺線区での運転に使用するため、全般検査期間のことも考慮したのかもしれませんね。」
64「せっかくそうした理由で選んで頂いたのですし、これだけ現在全国でC11が復活しているのですから、この重宝さを活かしてまた私を走らせていただきたいものです。
動態保存の先駆者としての意地もありますので(笑)。」

梅小路のC11
227「先程96さんの方から『47年9月に梅小路で廃車』という経歴をお聞きしたのですが、この日付というのは蒸気機関車館の開館の直前ですよね。
64「ええ、私は梅小路に47年8月5日に転入(履歴上)してきたのですが、なぜかすでにC11がいるので『あれ?』と思いました。ひょっとしてお呼びは間違いだったのかな?なんて(笑)。」
190「保存候補機以外に梅小路に蒸機がいたとは知りませんでした。
いったいなぜだったのでしょうか?」
96「それは私から説明しましょう。
梅小路の煙(山陰本線京都口のC57運用)は46年の4月に絶えたわけですが、その時の最後のメンバーは5両のC57さんと私96でした。
その後動態保存機の方々が入れ代わりにいらっしゃり、C57さんは転出あるいは廃車となったのですが、何故か私はそのまま梅小路区の片隅に置かれておりました。
若干の入換え作業などの仕事が残っていたからなのです。
その仕事もなくなり廃車となったのが47年9月、館が開館してもしばらくは放置のような形で隅に居候?させてもらっておりましたが、どうにか保存先も決まって解体されずにすんだわけです。」
64「96さんがいなくなったと思ったらなぜかまだC11の姿がある!と思ったらそれは311さんでしたね。」
292「あれ?311さんといえば姫路で一緒でしたね。私が姫路から品川(新橋へ保存前提に移管)に移った日付けが47―8―9ですから64さんとはどこかですれ違っているかもしれないということも面白いのですが、311さんは梅小路へ?」
311「はい、私も292さんなどと同じく姫路一区に47年夏頃までおりました。
役目を終えてそのあとはいつだったか覚えておりませんが47年末にはすでに車体は梅小路にありました。私の場合保存前提での留置というより臨時の据付けボイラー代用だったと聞いております。
ただその仕事もなくなっても保存の殿堂・梅小路の一角にいた事の効果があったのか幸いにも保存先が見つかり助かったわけです。
先ほども述べましたが廃車日が51―3梅小路となっているので車歴上は私も『日本最後の蒸気機関車』(梅小路在籍車の車籍消滅は除く、また正確には51―3―10付がある)の1両になるんですかねえ(笑)。」
227「なるほど、96さん311さんの事情はわかりましたが、まだ180さんがいましたね。」
                      
            「こんな姿で梅小路の隅におりました。昭和51年頃だったと思います」(180談)

312「時系列でいうと47年9月前後に96さんと311さん、その後96さんが保存地へ移動し311さんが機関車館開館後も留置、311さんが移動した後に180さんが来たことになりますね。
彼の梅小路留置の件は先程も少しお聞きしましたのでそちらを参考にしていただきたいと思いますが、「梅小路開館後の3両のC11」というエピソードは知る人ぞ知る、といったところでしょうね。」
※180の保存へのいきさつは『北海道編』も御覧下さい。

播磨路のC11
312「さて近畿地区もやや西に移りまして姫路一区で活躍した方々にお話を伺いましょう。
代表でどなたか御発言はありませんか?」
331「播但線(姫路口)からC11が引退したのは昭和47年3月のダイヤ改正時で、その時の『さよなら列車』を私と363さんとで牽引しました。たしか3月14日だったと思います。
下りは本務に私、後部に逆向きで363さん、上りはこの逆で姫路〜寺前を1往復しました。
ともに長く姫路で働いた同僚でしたので感慨深かったものです。
役目を終えた後、363くんは10日後の24日に最後の地である小牛田へ旅立って行きました。
陸羽東線や石巻線で再度の御奉公に励んだと聞いておりますが、残念ながら保存はされませんでした。」
(関東部会からの292が顔を出して)
292(S20日車 47―9品川廃車 JR新橋駅西口保存)「播但線の仲間と聞いてやってきました。311さん331さんどうも!姫路組の生き残りは少ないみたいですね。」
331「うん、無煙化の1年前に在籍していた(46―3末現在)10両のうち、最後まで残ったのが292・311・331・345・363の5両で、多くいた仲間もこの時点では3両が保存、2両が転出と何とか生き残ったのだけれどね。」
227(資料を見ながら)「姫路から東北へ転出した方は多かったようですね。
晩年でも178(46-4-2会津)179(47-3-25会津)、345(46-5-31 会津)、363(47-3-24小牛田)と4両の方がおられます。」
312「178・179のお二方には会津で良く顔を合わせていました。
345さんは先程も話に出た松阪ゆかりの方、皆さん懐かしい思い出ばかりですね。
さて331さん、姫路のC11の仕事はどのようなものでしたか?」
331「はい、姫路一区のC11は47年前後では播但線姫路口の他、別線に見えますが同じ播但線の一部である姫路〜飾磨港の貨物と姫新線の区間列車も担当していました。」
311「そうそう、播但線といえば生野越えのC57さんで有名だったけれど、本数でいえば我々の方が活躍していたよね。ただし和田山までの全線ではなかったけれど・・・(笑)。」
227「資料によりますとブームの頃C11が運用に就いていた列車は、朝夕の通勤・通学列車ばかりで、回送・休日運休などのものを含めて姫路〜寺前に上下8往復、姫路〜福崎に1往復、姫路〜甘地に上り1本ありました。
これにC57さんの客・貨が加わる(下り客3貨5、上り客4貨4)ので姫路口ではけっこうな本数が一日で撮影できたとファンは話していました。まあ景色は平凡な田園風景と住宅地ばかりでしたが・・・(笑)。」
331「撮影地ガイドでももっぱら北部の“生野越え”が紹介されていましたね。
まあ我々の働き場所も溝口・寺前などはちょこっと出てたこともあったようですが。」
312「朝夕の通勤・通学列車の先頭に立って次々発車する姿もけっこう頼もしかったのではないでしょうか。
播但線姫路口は都市近郊の区間列車というまさにC11にぴったりの最後の仕事場だったと思いますね。」
312「その播但線も今や一部は電化され、すっかり姫路近郊の通勤路線化しているということのようですね。
ありがとうございました。」

※姫路一区のC11配置
46年3月31日・・・177(のち苗穂へ)・178(のち会津へ)・179(のち会津へ)・278(46-6-1廃車)・292(のち品川へ)・305(46-5-14廃車)・311・331・345・363(のち小牛田へ) 計10両
47年3月31日・・・292(保存)・311(保存)・331(保存)・345(のち会津へ)

主なC11関連線区の無煙化(45年以降)
若桜線45―3、因美線45―4、津山線46―3、可部線46―3、吉備線46―4、境線46―10、高砂線47―3―3、大社線47―3、播但線47―3、片町線47―3―14、倉吉線49―4―24

中国路のC11
312「さて中国地区というと、山陽筋では赤穂・吉備・可部、山陰では若桜・倉吉・境・大社、そして山間部では姫新・津山・因美・芸備・木次といったところがC11を見かけた線でしょうか。」
80「支線や入換でこまめに働いていたということでしょうね。
ただ簡易線企画のところではC12さんが持ち場ですので、それよりちょっと上の長距離線を任されていたといったところでしょうか。C56さんもおられましたが、晩年は木次・三江線ぐらいでしたね。
C11はこのほか各地のヤード・機関区の入換にも活躍していました。」
227「資料によれば近畿・中国地区の無煙化=C11の引退は鳥取周辺の若桜・因美といったところが45年とやや早く、次いで境・可部・津山・吉備線が1年遅れの46―1〜4月、大社・高砂・片町が47年3月というかたちで消えています。
多くの蒸機撮影ファンが大型機に眼を奪われているうちにいつのまにか消えて行ったのが我々C11のような気がするのですが、確かに近畿・中国地区では『C11の有名走行線区』といわれるところはなかったようですね。」
80「確かに・・・。せいぜい伯備のD51三重連に近い吉備線や、私のいた津山線ぐらいが撮影地ガイドにも載ったぐらいでした。
まあ紹介するにも大方の線区はC11が活躍していた時期には少し遅かったという感じですね。」
227「そんな中で最後まで頑張ったのが米子区のお仲間で倉吉線担当の方々でしたね。
本州の蒸機ももうかなり少なくなった49年まで残ったのですね。」
312「倉吉線ではどういった感じでしたか?」
75「倉吉線は米子区の担当で、いつもその中の1両が出張してきて倉吉に常駐し、一日の仕事をこなしておりました。
C11が入るのは途中の関金まででしてすべて旅客列車、貨物は一部が混合となって運行されていました。
遅くまで煙が残ったわりに使用両数が少なかったためか、最後のお二方も九州まで行って解体され、当時の生き
残りは私だけになってしまいました(涙)。」

※起点である倉吉駅は以前「上井」と称していたが、のちに改称されたため、かつての市の中心部であった元の「倉吉」駅は「打吹」に改称されている。
したがって打吹の次駅が「西倉吉」であるのはかつての名残りである。
46―5―1現在 C11牽引列車 (下りは逆行)
上井(倉吉)〜関金 下り客×2、混×1 上り客×1、混×2
上井(倉吉)〜倉吉(打吹) 下り客×1、混×1 上り客×1、混×1
上井(倉吉)〜西倉吉 下り混×1 上り混×1

倉吉線の駅(C11の運用は関金まで)
上井(倉吉)―上灘―倉吉(打吹)―西倉吉―小鴨―上小鴨―関金―泰久寺―山守 
312「主な撮影地はどこだったのでしょうか?」
75「私たちは短い路線中でもさらに途中の倉吉〜関金しか走っていなかったのですが、やはりファンの方は上灘駅手前の竹田川橋梁でまず撮影していたようですね。
トラス&ガ−ダ−で190メートルほどあってけっこう長いものでしたので混合列車の全体を入れるには都合がよかったようです。」
312「なるほど、運用を見ると混合になったり貨物になったりいろいろのようで列車に乗り降りしながら一日同じカマに付き合う、といった計画を皆さん立てていたようですね。
その倉吉線の最後はどうだったのですか?」
75「はい、私は検査切れなどの関係で同線の無煙化よりかなり早い47年に廃車となってしまいましたが、幸い打吹(元・倉吉駅→現・倉吉線記念館)駅を間近に見る場所に保存されまして、残った仲間の最後の活躍を見守っておりました。
C11が引退したのは49年春のことで、昭和49年(1974)4月28日に41号さんが「さよなら列車」を牽引したのです。その際にデフに大きなツバメのマークがペイントされ(通称「デカツバメ」)、人気を呼びました。
同機はその後転じた九州でもこのマークを付けたまま走っていたそうです。」
227「そうでしたか。結局、車籍のみの在籍を別とするとこの地区での最後の定期運用C11となったのはこの倉吉線の41さんと261さんということになるのですね。」
75「そのようですね、49年4月末のことですからもう本州でもSL運転線区もほとんどなく、このお二方もお役御免となるはずだったのですが、こちらも例の会計検査院の指導による処置なのか、まだ検査期限が2両ともあったので揃って最南端の志布志区へ、まさに最後の御奉公へと旅立ったのです。」
                     
                       雪晴れの倉吉線を走る41号(49年12月)

※境線無煙化〜46―10(○はその時点で残っていたカマ)
46年3月31日前後の米子区配置C11の動向(★はのち保存) 
11 46―6―9米子廃車
41○49―5―31米子→志布志 50―2―17志布志廃車
75★○47―9―16米子廃車
238○47―3―4米子廃車
261○49―5―30米子→志布志 50―2―17志布志廃車
271 45―3―27米子→津山 46―10―26津山廃車
342 46―6―9米子廃車
343○47―3―4米子廃車
364○46―5―16米子→青森、47―5―27青森→釧路、49―1―19釧路廃車

227「倉吉線以外での周辺線区での様子など、覚えておられる範囲でお聞きしたいのですが75さんいかがでしょう?」
75「境線での活躍の様子はたまに趣味誌のグラフ等に掲載されていましたが、実際は海岸線などの風光明媚なところは走っていなかったため、もっぱら珍しい背の低い腕木式信号機がある大篠津駅や、貿易の盛んな港に接した終着駅・境港での船との出合いなどを撮ったものが多かったようですね。
手許にある趣味誌のグラビアは69年8月の撮影のようですが、登場するのは238・271・343のお三方でした。大社線では関西からの夜行急行が普通となって線内を走る運用がけっこう遅い時期まで残っていたので、寝台車などを連結した長大編成の列車を仲間が牽いていたことが特筆されるでしょう。」
227「なるほど、北海道のC58さんの“大雪くずれ1527レ”のようなものだったのでしょうね。
その大社線も廃線となって久しいようですが、あの壮大な駅舎は保存され、構内跡には出雲大社から引っ越してきたD51さんが我々の代わり?に保存されているとのことです。」
312「その他の線区についてはあまり当時の御活躍の様子は趣味誌でも少ないようなので、またあらためて資料を捜してみたいと思います。
ではつづいて津山・吉備線にまいりましょう。」

津山のC11
312「さて津山線というとやはり80号さんにお話いただかないといけませんね。
東北地区に続いての御参加ですがよろしくお願いいたします。」
80「記録によれば津山・吉備線にC11が入線したのは昭和24年(1949)頃のようで、C12・C56さんに代わったものでした。そして昭和46年春に両線から引退するまで約22年間働いたことになります。」
227「やはり通勤・通学や区間列車でC11は重宝していたようですね。
ファンはどのようなところに来ていましたか?」
80「そうですね、誕生寺あたりがまあ手頃だったようで、変わったところでは吉備線の運用車が岡山からひと駅足を伸ばして通学列車のお手伝いをするという法界院行なんてのもあり、これを狙う方もおられました。」
312「津山線の無煙化の時には80さんがさよなら列車を牽いたのでしたね?」
80「はい、あれは昭和46年3月24日でした。会津でもお話しましたが、古参ということで最後も飾ることが出来ました。会津に行ってからもこうして故郷に呼び戻されて余生を過させていただき、津山の皆さんには本当に感謝いたしております。
また無煙化まで働いた最後のメンバーの消息はさまざまで、ここで廃車となったのが77・79それにお召し機の251さん、私(80)は会津へ、86さんが熊本へ、215さんが大湊線(管)へ、315さんが奈良へと各地へ移動しました。215・315さんとはその後会津で再会したのですが。まあみんなよく働きました。」

C11のお召し列車牽引の記録・中国地区関連(★は保存車)
11  S40―5境線(+342) (鳥取植樹祭)
43  S42―4―9 津山・姫新線(岡山植樹祭)
    金川〜津山〜中国勝山 C11251と重連(43は次位)
    デフに梅の花模様の装飾
80★ S38―10 津山線(岡山国体)
86  S38―10 津山線(岡山国体)
251 S42―4―8 赤穂線(岡山植樹祭)岡山〜伊部
    S42―4―9 津山・姫新線(+43)C1143の項を参照
    津山線・金川〜姫新線・中国勝山 デフに「飛翔する鳳凰」の装飾
336 S44―10の予備機、S24にも牽引
337 S24
342 S40―5境線(+11) (鳥取植樹祭)

可部線の三兄弟
325「189さんのいらっしゃる可部線には末期には三番続きの兄弟機が活躍していたと聞きましたので、ちょっと調べてみました。
無煙化時に残っていたのは328・329・330のお三方です。
彼等のその後も興味を抱くものでして、『さよなら列車』を牽引した長兄の328は46―3―29付けで七尾区に転属し、能登の『ふるさと列車』の三代目C11牽引機となりました。
次兄の329は328の一ヶ月後の46―4―29に九州は直方へ移りましたが二年ちょっとの働きで48―8―10に
直方で廃車になっております。
末っ子の330は無煙化まで残らずに半年前の45年10月に木次へ移動してしまいました。
廃車はそこで47年5月と聞いております。」
331「なるほど330くんは一つ違いですが意外と最後は近くにいたのですね。
履歴を聞いてはじめてわかりました。」
312「可部線のお別れ列車は46年3月18日ですから、津山線より6日早かったわけですね。
確か328さんが芸備線のC58さんが付けたのと同じヘッドマークを付けて走ったということです。」

四国のC11
312「四国でのC11の活躍については先ほどもお話がありましたように比較的早い45年(1970)3月末で終焉を告げており、思い出話しも少ないのではないでしょうか。
手元の資料によりますと、四国内でのC11は昭和7年に松山機関区へ24号が新製配置されたことをもって嚆矢とするとのことですが、その後の四国島内では蒸気機関車といえば8620・C58・C12が幅を効かせており、短期間入線したD51さんとC11はあまり目立ったことはありませんでした。
それでも最晩年は小松島などに残り、牟岐線や鳴門線での運用があったようです。」
66「四国在籍C11の生き残りは私しかいませんので込み入った話も出来ませんが、小松島でかつて他の仲間に聞いたところでは、晩年のC11の運用としては、41年10月改正時で多度津区のものが周辺の短区間と坂出臨港線の入換、小松島区のものが鳴門線の客・貨各一往復 徳島線穴吹まで一往復 牟岐線桑野までの貨物一往復などとなっていたようです。
この時点で四国内のC11は4〜5両しかおりませんでしたので仕事もこんなものだったと思います。」
227「何かお別れ運転のような行事はあったのでしょうか?」
66「はい、45年の3月31日に徳島〜桑野をC11137さんが牽いて最後を飾りました。
227「四国の晩年メンバーを記録写真などで見ると、137(45-5-28小松島廃車)・138・140(42-2-13小松島廃車)など連番の方が多かったようですね。
中でも138さんはC11では貴重な正面形式入りプレートを最後まで付けていたようです。
いずれにしろ少し寂しい四国の仲間のエピソードですが、今後の資料の発見や発表などを待ちたいところです。
島内保存の66・195さんの御健勝を願っております。」
66・195「ありがとうございます。」

312「以上がこの近畿・中国地区で活躍したC11の状況や思い出ということですが、エピソードは盛り沢山でしたね。
この他にも私鉄や専用線で働いた仲間もいたということですが、こちらの方は保存されておられる方はいらっしゃらないので主催者から頂いた資料での御紹介にとどめておきます。
この地区で有名だったのは岡山県の同和鉱業片上鉄道で働いたC11で、元大井川のC12さん、テンダ機からの改造だったC13さんなどとともに働いたそうです。簡単な資料をお配りしましたので御参照下さい。」
(資料)
片上鉄道の仲間たち
在籍したC11と同形の仲間は以下の通り。
C11―101 S22―5日車製 当初は「101」の車番で登場(43-10-29廃車)
C11―102 S24―10川車製 S43―4―1付で廃車
C11―103 S24―11川車製  同上
参考 同鉄道に在籍したC12には元大井川のものがいた。
C12―200形202号で、S10―12日車製 国鉄のものと同形。
大井川鉄道最後の蒸機として生まれ「C121」と表記。S25―7に電化によって不要となり片上に譲渡。
借入れ機関車 記録に残るものはC1111、43、127など。

312「これで中国・四国地区は終了とさせていただきます。
続いてはラストグループとなりますが、190さんが長く暮らした九州のみなさんのお話をうかがうことにいたしましょう。」

第四部 中国・四国編 おわり

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