C6212 幻のツバメに関する
   松本謙一氏の見解

向山様 菊地 俊夫
早速ですが、松本様の許可をいただきましたので、見解を送付いたします。
『それに関連して,別の御質問をいただいても直ちにお返事を書けるか,となるとお約束はできません』、とのコメントも付いてきていますので、原文のまま、以下に記します
このコメントも掲載の際は注釈として添付していただきたくお願いいたします。


以下、松本氏の文です。

久しぶりに履歴簿調査のころを懐かしく思い出す機会を与えていただきました.掲示板に転載の件はそちらで手配していただけるのでしたら,ご活用いただいて結構です.
ただ,私も近年細々とした用事が多く,それに関連して,別の御質問をいただいても直ちにお返事を書けるか,となるとお約束はできませんので,そのあたりは管理人様にもよろしくお伝えください.

ますます皆様が蒸機の時代を懐かしみ,楽しんでくださいますよう希望しております.

松本謙一 拝


前略 弊社刊行物のご愛読と「めるとれ」へのご登録,ありがとうございます.

私自身は徹底的なアナログ人間でございまして,平素インターネットを見るような習慣が全くないものですから,(そもそも今月に入ってはじめてインターネットの簡便な開き方を覚えたばかりで),私が33年も前に書きましたものが今頃,論議の種になっていることなど知る由もなく,皆さんにいろいろ推測のお手間を掛けていただいた,というのは恐縮の極みです.
どなたか編集部にでもお電話くださればもっと早くお役に立てたかもしれません.

結論から先に申しますと,私もC6212につばめマークが付いている写真は未だ発見しておりません.
「HUDSON C62」の取材の中で,この話にぶつかり,以来,浜松時代のC62の写真を目にするたびに気を付けていますが,そもそも12号機は浜松区の所属機のなかでも写真運の薄い罐でそれ自体なかなか出てきません.
(どんな形式にも不思議に写真運の濃い罐と薄い罐があり,濃い罐,たとえばC5347などは別に特徴ある罐でもないのに何人もの方の違う日のカメラに引っ掛かっているのに,一方では東海道,山陽に居ながらいまだに写真が1枚も発見できないC53もあります)
また,当時の国民生活や写真材料供給の状況が名古屋電化以前と以後では格段に異なり,それを反映して,浜松区所属のC62が牽引する特急「つばめ」,「はと」の写真も名古屋区,宮原区の罐に較べて格段に少ないことが検証を難しくしています.

私に「浜松ではC6212につばめマークをつけた」という話を最初に聴かせてくださったのがどなただったのかは,33年前のことで,いまは確かには思い出せません.
ただ,私が「HUDSON C62」出版のために取材をしてまわったころはまだ19歳で,鉄道ピクトリアル,鉄道ファン両誌には今村潔,臼井茂信,小熊米雄といったこの趣味界の重鎮の方々がまだ壮年で盛んに執筆されていたころですし,鉄道友の会のお歴々などは一種象牙の巨頭のような存在感がありましたから,いい加減なことを書けば徹底的にたたかれるわけですし,C62が東海道を去って,まだたかだか12-13年しか経っておらないわけで,ファンの間にも有名無名の証人はいくらでもいるのだから,という緊張感はありました.
ですから,少なくとも複数の証言があって書いたはずです.
一方,当時,私は「鉄道ジャーナル」誌でアルバイトをしていた関係で,まだ鉄道趣味界のお歴々の間には本当にお付き合いが少なく,「HUDSON C62」で直接,お話を伺ったのは国鉄OBの衣笠氏,現職であられた久保田博氏,ファン界のほうでは萩原政男氏,高田隆雄氏ぐらい,どうもその中には特定番号機や浜松区の事情に明るい方が無いので,私も情報源が特定できないのです.
あとは交通博物館の図書室で閲覧した「ピク誌」の古い号が頼りでした.

しかし,この「HUDSON C62」の刊行直後,ある事情から私が自分の写真の発表の場を「鉄道ファン」誌の方に移しますと,俄然お付き合いの範囲が拡がり(当時「ジャーナル」誌は東京の古い趣味界からは一種反逆者扱いされており,「ジャーナル」に活躍する者は「ファン」には受け入れられない雰囲気がありました.私の場合,いまでもその余韻があって,伝統的な趣味界からは異端者扱いされていますが),そこではC6212がつばめマークをつけていた,という話は半ば常識になっていました.
記憶している範囲では臼井茂信氏,黒岩保美氏から聞きましたし,宮田寛之,西尾恵介など少年時代から「鉄道友の会」人脈で育った方々は知っていましたから,おそらく鉄道友の会東京支部では語り伝えられてきた話だったのではないでしょうか?
しかし,写真は未だに見つかっていない,誰か撮っていないものか?という話も当時すでにセットになっていました.(黒岩氏は1968年に出した私の最初の写真集,「煙」の書評以来,お付き合いが始まっていましたからC6212の件も「HUDSON C62」の取材時点で教えていただいたかもしれません)

「C6212についていたつばめマークをC6218に引き継いだ」という記述は,そこに私もはっきりお断りしているように,1969年時点における私の推測です.
「HUDSON C62」取材の時点では実は東京で当時のピク誌をはじめ,文献をいくら当たっても,例の129km/hの記録を出した罐の番号が判らず,これを突き止めることを主目的に名鉄局,名古屋機関区にも取材に出かけましたが,特急牽引時代のことを知っている人は皆さん現場から去って居られ,当然18号のマーク取り付け事情についても収穫はありませんでした.
17号が速度記録の当該機であることを証言してくださった平松氏との出逢いもほとんど偶然に近い名鉄局関係者の会話の中からの産物でした.
「鉄道ファン」誌に地元のファンの方が当時の名古屋区関係者を発掘していろいろな証言を得られたのはずっとのちのことです.
ですから,中に自分がC6218のマークの製作を担当したという方があるのは,それが信憑性が高いと思います.

C622の方は鷹取工場で冷蔵車内装の残材から造り,宮原区で取り付けた,という話の方は出所ははっきり覚えておりまして,これは当事者だった久保田博氏です.

これは皆様のロマンを壊すようで申し訳ないのですが,私が当時国鉄側を取材した感想では,いずれにしてもデフのマーク取付は現場の遊び心の一環で,何か正式な企画として実施されたものではなかったようです.
従って図面を保存したり記録に残すようなことでもなかった,というのが実状のようです.
私がジャーナルに発表しましたグラフが発端となって,C622もその後のSLブームの中ですっかり大スターになって
しまいましたが,それまでは東海道時代も北海道に渡ってからからも趣味誌に特定番号機としてクローズアップされたことはありませんでした.
それだけに東海道時代当時のピク誌にも3輛とも特筆というかたちでは触れられておらず,私も当時の様子を掴むのに困ったことは覚えています.
何しろ名古屋機関区などでその話をしても,ほとんどの人は「ヘッド・マーク」のことだと勘違いされました.
「ヘッド・マーク」の方は本社指示の業務でしたし,毎日の付け替え作業が伴うので記憶に残ったのでしょう.

ですから,皆さんの会話の中に可能性として挙げられている,「C6218に付ける予定のものをC6212で試験もしくは検討した」というようなことは,双方とも名門大機関区でありそこまで協力して準備する必要のあるほどのプロジェクトではなかった,と思います.
浜松で不要になった後に名古屋から「あれ,貰えんかのう?」と声を掛けたような可能性は否定できませんが…

いずれにしても,あのマークはステンレス板さえあれば現場ではコピーするのは簡単だそうで,現にC622も北海道末期に現場で何回か職員たちにコピーされ,闇で新品に交換されている,という説は当時ありました.
真偽のほどは判りませんが,言われてみれば,自分の写真の中でも現役最後の全検のころまでと最末期では少しつばめの相が違うような気もします.
「HUDSON C62」の付録にした拓本は採取が1969年春,築港区で脚立を貸してもらって,扇形庫内でそれに昇って採った覚えがありますので,東海道時代のころからのものかどうかは不明ながら,現存する最古の段階の拓本であることは確か,と思います.

ついでながら「HUDSON C62」の取材の思い出を書きますと,当時,世界でも特定の形式の機関車だけをまとめた単行本というのはまだ例が無く,「HUDSON C62」は偶然にもほとんどその先駆けになってしまったのですが,それだけに本の構成も全く独自に考えなければなりませんでした.
 それで判った衝撃の事実は,当時趣味界に沢山の蒸機ファンがおられながら,個々の番号機に関しては誰も経歴と装備の変遷を調べ,地方毎の装備の違いを分類整理している方が,実はないのだ,ということでした.
確かに局報等から中央で移動だけは追跡して居る方はあっても,その機関車が誕生してからの連続的な記録を集めている方は無かったのです.
さらに本社の機関車課などに聞き回るうち,それは結局,個々の機関車についてまわっている「機関車履歴簿」を閲覧する以外には知りようもないことが判ってしまったのです.
 これはすなわち個々の機関車が居る機関区1軒ずつをまわらなければ判らないのだ,ということを意味します.
しかもすでに廃車になった罐の履歴簿の保管場所というのが管理局ごとにすべて規定が異なり,ある管理局では管理局機関車課の倉庫,ある管理局では文書課の倉庫,ある局では機関車課の事務所,解体を担当した工場の倉庫,
最後に配置されていた機関区の倉庫,などまちまちで,「形式シリーズ」をまとめる仕事の1/3以上はそれらの履歴簿の所在を尋ねてまわり,「一体何に使うのだ?」といぶかられながら閲覧を懇願してまわり,やっと閲覧を許されると1台あて数百ページの台帳とその間に貼り込まれている大小の修繕記録紙の中から必要なデーターを見つけだしてはこちらの調査用紙に書き取ってくる,という,時間も旅費も膨大に掛かる作業の繰り返しでした.

現役機の場合は機関区の検修課ですから割にすんなり見せてくれるのですが,一番困ったのは,廃車になった罐の履歴簿でした.
こうした文書を保管してある倉庫には同時に事故や事件の記録も保管されていることが多く,そのために部外者,特にどこの者とも不確かな20歳前後の若造を中に入れたがらないのです.
それを1軒1軒,「本社の資料ではどうしても判らないデーターを求めている」というような説明を繰り返しては口説き落として鍵を開けてもらうわけです.
 さらに機関車履歴簿というのは分厚く,大きい上に,寿命の長い罐では2冊,3冊に及んでいることも珍しくないので,必要データーを見つけるまでが大変でした.
皆さんは「コピーしてもらえば」とお考えになるでしょうが,あの当時にはまだ局の機関車課ですら初歩的な湿式コピー機がやっと入ったころ,機関区の現場にはそんなものはありませんし,また1台につき何百ページの中に埋もれている1行を探し出すようなことに全部をコピーしてもらうようなことを頼めるわけもありません.
結局,1ページずつめくりながら手書きで書き取るという作業方法しかありませんでした.

おかげで国鉄の修繕記号とか部内用語はかなり解読できるようになりましたが,それで見ますと,性能や安全に関係する修繕、改修はそれこそパッキング1枚の交換まで記録してあっても,装飾的なものに関しては具体的なことはほとんど書かれていない,ということもわかりました.
たまにあったとしても,ほとんど場合は「特別整備」の一言です.
お召し機なみの装飾を施すのも,単に普段より入念に磨くのも用語としては「特別整備」なのです.
ですから,こちらが予め写真等で時期的な見当を付けて見ていきませんと,お召し機として整備されたのもわからないことがあるのです.

C6212の履歴簿も浜松当時のあたりを何回か確認しましたが,履歴簿にはそれらしい記載は見あたりませんでした.C622でも宮原の現場取り付けであったことを考えれば当然かもしれません.

結局,「形式シリーズ」の副産物として私共には昭和30年代後半以降廃車の国鉄蒸機1台1台の履歴簿から採取した膨大なデーターが残りました.
形式によって粗密はありますが,C62,C60,C59,D62,D52,C57,C55,D51ではかなりの%まで調べ上げました.
その後,主に新幹線工事に伴う管理局庁舎の移転と蒸機全廃を機会に国鉄では残していた廃車分履歴簿をすべて廃棄してしまいましたので,わたしどものメモが残っているほとんど唯一の記録という状態になってしましました.

ですから,C62の履歴に関しても今日,出版物に出てくるデーターのほとんどは,大元は「HUDSON C62」か再編集版である「形式シリーズ C62」から出ているとお考えになっていただいてよいと思います.
「鉄道ファン」誌の西尾恵介氏の記述も私の了解の下に「形式シリーズ」のデーターを利用しています.

長々と書きましたが,「つばめデフのC6212の写真」はまさに戦後蒸機史の中のツチノコでしょうか?
情報時代,ひとつぐらいそんなロマンもあってよいのではないでしょうか?
私もいまだに発見の夢を捨てていません.

「HUDSON C62」出版当時から見たC62の東海道時代までの年数の倍以上がいつの間にか過ぎ去ってしまいました.当時では事情を知っている人がそこいら中にいたようなこともいつのまにか確かめにくくなっているのに,お手紙をいただいて改めて気づかされました.
私も生きているうちにせいぜい蒸機に関して知っていることは皆さんにお伝えしておかなければいけませんね.
私でお役に立てることがありましたら,またお尋ねください.

早々

松本謙一 拝

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